第82話:シャーロットとリヴェン
「……見つけたぞ」
「どうしたんですか? そんなに急いだ様子で」
気が付けば、あんなにいたはずのみんなはどこかへ消えてしまっていた。
静まり返った野良猫亭に、俺とリヴェンの二人きり。
ああ、なるほど。これが試しだというのなら。
俺がやるべきことは決まっている。
関係性の清算だ。
「もしかして、心配しちゃってました? そんな深刻そうな表情しちゃってぇ~」
思えば、リヴェンには随分と心を砕いてしまっていた。
俺とこいつは契約でしか繋がっていない仲だというのに。
そういう意味では、これほどふさわしい配役はないだろう。
「……ああ、心配したさ」
声のトーンの重さに、一瞬だけ怯んでしまう。
込められていた切実さに嘘はない様に感じて、すぐさまそんなことはないと思い直す。
聞いてきただろう? みんな心の底では俺の事を疎ましく思っているんだ。
心配してるってのも表面だけ。ここで乗れば、更に落とされるだけ。
だから、信じるな。
「シャーロット、ここは夢の中だ」
「夢の中? あはは、だとしたらいいですね」
「信じてはくれないのか?」
「ええ。だって、ほら、こんなにも鮮明で、明瞭で、感覚まである夢なんてありますか?」
俺は両手を開きながら、その場でくるりと周り周囲を見回してみる。
俺が知ってる夢ってのは、こんなに現実そっくりじゃない。
「見てくださいよ、あそこの天井の焦げ跡。お客さんが喧嘩した時にできた跡でして、マスターが珍しく声数多く怒ってたんですよ」
そう、そういう細かい部分が再現されてるのも違う。
何よりも、こんなに痛いのに覚めないのが夢であるはずがない。
ああ、そうか。
夢ってのは、そう言って逃げ道を用意してくれているのか。
俺が受け入れられず、逃げる道を選んだ時のために。気の利くことだ。
「リヴェンさんもそういう冗談が言えるようになったんですね」
「いや――」
「大丈夫ですよ。私の決心は固まりましたから」
そう、もう決心は固まったのだ。
俺が間違っていた。
「シャーロット」
「はい?」
そう言えば、リヴェンってこんなに俺の名前を呼んでくれてたっけ?
最初の頃は全くだったけれど、最近は時々呼んでいた気がする。
親しくなり過ぎた証拠なのかもな、これも。
「何があった」
――思考が一瞬だけ飛んだ。
リヴェンの真剣な表情は、先ほどまでの心配とはまるで違う。
確信? いいや、訝し気だ。何かに気が付いて、それが何かわかっていないように見える。
「何があっただなんて、大仰ですね。そんな――」
「誤魔化すな。お前は普段そんな奴じゃあないだろう」
無造作に一歩近づいてくる。
表情が怖い。
先ほどの連盟での出来事が想起された。
俺を取り囲む人々、見つめる虚ろな目、責め立てるような――。
「来ないで!」
恐怖心のままに、思わず叫んでしまう。
まずい。これは失策だった。
リヴェンの表情が、一瞬だけ驚きの色に染まり、確信へと移ろう。
足は止めてくれたけれど、俺にとってまずい方向へ動いたのは間違いない。
「もう一度聞く。何があった」
「な、何もないですよ」
「嘘だな」
「嘘なんかじゃ」
「なら、どうして、俺の顔を見てそう言わない」
この流れはまずい。
どうすればいい? どうすればこの話を終わらせられる?
俺の知っているこいつは、こういう時に――。
「――悪いな」
――こうする奴だ。
ゆっくり近づけば逃げられると思ったのか、俺が反応できない速度で接近され、気が付けば右手首を掴まれていた。
距離が近い。一瞬だけ視線が交差する。少し気まずくて、すぐに逸らした。
「ちょ、ちょっと、近いですよ。もう、そんな焦らなくても逃げませんって」
辛うじて笑顔を作りながら、やんわりと拒絶する。
逃げるつもりがないのは本当だ。俺がこいつから逃げきれるはずがない。
それでも、顔を見ることができない。
その表情が俺を責め立てるものに変わってしまえば……耐え切れない気がしたから。
「だから、この手を放してください。ね?」
「気が付かないとでも思ったか。お前が普段、常に人の顔色を窺っていることぐらい、わかっている」
いきなりの言葉に、眼を丸くする。けれども、顔を上げてリヴェンの顔を見る勇気は出ない。
「俺の顔を見ろ、シャーロット」
「ご、強引ですね。強引な男の子は嫌われちゃいますよ」
「シャーロット」
怖い。顔を上げた時、どんな表情が出迎えてくるかわからない。
「……頼む」
縋るような声。泣きそうな声。
これが試しというのなら、何と酷いことをするものだ。
胸が苦しい。でも、怖い。
この先に待っていたのが拒絶なら、俺は耐えられるだろうか。いいや、耐えられない。
ああ、俺の中でそのぐらいリヴェンは大きな存在になってたんだな。
レイナード以来か。いいや、レイナードよりも深い。
期間自体はレイナードの方が長かったけれども、リヴェンと過ごした時間は考えられないぐらい濃密だった。
「お願いだ。恨み言があるなら、幾らでも後で聞く。だから、今だけは、言うことを聞いてくれ」
……ああ、俺は本当に弱い奴だ。
こんな声を出させていることに耐えられない。その後の事が想像できたとしても、最悪が頭からこびりついて離れなくても、見て見ぬふりをしていられない。
本当に、弱い奴だ。
顔を上げる。
そこには……葬式にでも立っているのかと言わんばかりの、深刻な表情をしたリヴェンがいた。
普段のこいつからはあまりにも想像ができない、弱弱しい姿。
思わず口から空気が抜けていく。
この感覚は何だろう。奇妙な感覚だ。
作り物を見ているような感覚。それも正確ではない。
理解した。ようは、俺は今見たものを心の底から信じたくないだけなんだ。
こんな、弱弱しいこいつを、見たくないんだ。
「シャーロット。この世界は夢だ。魔法によって作られ、お前は閉じ込められている」
「また、それですか。そんなの……信じられませんよ」
嘘だ。本当は信じたい。
これまでの出来事が全部夢ならどれ程いいことか。
でも、真実なら?
緩んだ後に落とされるのが一番つらい。さっきがそうだった。
だから、もう緩めない。緩めたくない。
「わかった。信じなくてもいい」
「え……?」
「その代わり、ついてきてくれ。信じなくてもいい、俺にお前を助けさせてくれ」
何を、言っているんだこいつは。
わけがわからない。そんなことをして何になる。
「シャーロット」
やめろ。その眼で見るな。俺を、そんな純粋な目で見るな……っ!
気が付けば、掴まれていた右腕を振り払っていた。
リヴェンは僅かに驚いた様子で、でも、決して焦った様子はない。
それがなおの事腹立たしくて、俺は思わず叫んでいた。
「どうせ……っ! どうせお前も俺を内心では蔑んでいる癖に! あとで裏切るんだろう!」
やめろ。それ以上口にするな。
そう思っても、一度口から出てしまった淀みは絶え間なく溢れ出てくる。
心の底から、醜い感情が止めどなく湧き出てくる。
「知ってるんだよ。本当は俺だってわかってるんだよ! 俺がどんなに酷い奴か、俺がどんなに醜い人間か! どれだけ他人に疎まれている存在か!」
感情のままに、言葉を叩きつける。
「人の良心に寄生して! 誰かの心を削り取って! いるべきでないところに居候して!」
もはや何が言いたいのかもわからない。
「でもでもだって! そうしないと生きられないからって。俺はいつまでも自分を正当化するばかりで、自分の罪からは目を逸らし続けてて」
それでも口から言葉は出てくる。その分、全てを吐き出すつもりで叫ぶ。
「見た目がいい? はっ、外面しかないの間違いじゃないか? それでどれだけの人を惑わせた、どれだけの人を騙して養分にした!」
ああ、涙があふれて止まらない。この涙は何の涙だろうか。
「誰かに力を貸すのだって、本当はただ少しでも罪の意識から逃れたいだけなんだ。俺が生きてるせいで、どんどん周りが不幸になっていくことから目をそらしたいだけなんだ!」
リヴェンは何も言ってこない。ただ俺の慟哭が響き渡るだけだ。
「俺は、生きなければならない。それが母さんの望みだったから。でも、でも――」
それに甘えて、俺は全てを出してしまうつもりで、言葉を続ける。
「生きてることでこんなにも周りを不幸にするのなら、俺は死んでた方がよかった……っ!」
そして、最後には自分ですら今まで考えたことがなかった言葉が出てきた。
だとしても、口に出してみれば、凄くしっくりくるんだから不思議なものだ。
しばしの沈黙。言葉を吐きつくした俺は、一周回って冷静になる。
やってしまった。誤魔化さないと。
キャラじゃないことしちゃったって、でないと、でないと――。
「な、なんて、あはは……」
「シャーロット」
静かな声。落ち着いた声色。
俺は下を向いていた顔をゆっくりと上げた。
上げた先にあったリヴェンの表情は、意外なことにいつもとそう変わらない、凛々しいそれだった。
「俺は、お前に救われた」
そっと、投げ出していた右手を下から掬い取られる。
リヴェンはそのまま片膝をついた。
「だからというわけではない。お前が俺を信じられないというのはわかった。俺はお前の人生を、実際に見てきたわけでも体験したわけでもない。だから、何も言わん」
「なら、何ですか」
「俺を心の底からは信じなくてもいい。ただ、交わした契約だけを思い出せ」
そう言って、俺の右手の甲に額を付けた。
これ、は……。
「たった今、交わした契約を履行しよう。この夢の中において何が起きようとも、たとえ我らが建国の祖が敵に回ろうとも――俺はお前の味方だ。シャーロット」
あっ、と口から言葉が漏れる。
これは、オークションの最終日。あの壇上で交わされたやり取り。その再現だ。
「俺はこの契約を破れない。何があろうと、この場では俺はお前の味方であり続ける」
咄嗟に言葉が出てこない。
何を言えばいいのかわからない。
ただ、涙が溢れて止まらない。
「……本当に?」
「ああ」
「本当の本当に、味方してくれるの?」
「ああ。契約だからな」
リヴェンの目は真剣そのもので。嘘や冗談の色はどこにもない。
「俺は、今まで人を騙して、利用して、散々酷いことをしてきた人間なんだ」
「だが、俺はそんなお前に救われた」
「みんなが俺を厄介者だと思っている」
「そうか。だが、俺はパーティだからな。そういう契約だろう?」
俺の言うことを否定はしない。そのうえで、リヴェンは側にいると言ってくれる。
そのことに、心の底が揺れ動く。
駄目なはずなのに。決めたはずなのに。
信じたくないのに。傷つきたくないのに。
「リヴェン」
「なんだ」
優しい声色。
それが最後のトリガーだった。
「――一人は、やっぱりやだよ」
心が壊れてしまう音がした。
「誰かに拒絶されるのが怖いから、傷つくのは辛いから、なら、最初から遠ざけてしまおうって。そう決めたんだ」
今、俺はどんな顔をしてるだろう。
リヴェンの表情は優しく微笑んでいるもので、そこからは読み取れない。
「みんなが俺を責め立てるんだ。お前が悪いって、お前はいるべきでないって」
「……そうか」
「でも、それでも、心の底では軽蔑されててもいいから、表向きだけでもいいから……みんなといたいと思うのは駄目なのかな」
「駄目なんかじゃないさ。望む権利は、誰にだってある」
最後の防波堤すら肯定されて、俺はもうどうすればいいのかわからなくなってしまう。
確かなのは、止めどなく溢れ出る涙が視界を歪ませていることだけ。
もうまともに前も見えない。
そのまま俺は抱きしめられ、リヴェンの胸元で声を上げて泣いた。




