第57話:シャーロットと虚無
「シャーロットちゃん、大丈夫?」
「はぁ、だい、はぁ、ぶ、です」
暗闇の中を進んで現在第五階層。
ここまで走って進んできたから、息が既に絶え絶えだ。
呼吸が苦しい。一回目にダンジョンから脱出した時から、今日はずっと走っている気がする。
明日筋肉痛になったりしないよな。
でも、今は急がないといけない。
暗闇がずっとずっと深くなっている気がする。これは良くないことの予兆に違いない。
「はぁ、とにかく、急ぎましょう」
「わかった。最短経路で行こうか」
ここまでモンスターに出会っていないのも気になる。
津波が来る前には潮が引くと言うが、その類の予兆に思えてならない。
その予兆は誰に降り注ぐか? ……考えるまでもない。
でも、走るのは流石に厳しいから早歩きぐらいの速度で進む。
トリシェルもそれは把握してくれているらしく、俺の進む速度に合わせてくれる。
「モンスターがいないのは、多分セイラムの影響だね」
「セイラムは……その、ダンジョンの秘宝を持っているんですか?」
正直なところ、俺はそこまでダンジョンの秘宝を信じていなかった。
だって、ダンジョンはダンジョンだし、制御できるようなものだとは思わなかったから。
こんなモンスターやら異常な環境やらが存在する場所、人がどうにかできるものじゃないだろ。普通に考えて。
でも……こうして実際に目の当たりにしてしまうと、あるのかもと思ってしまう。
『想像できることは実現できる』という偉人の言葉もある。
認めるしかないのかもしれない。いや、目を背けるのをやめるべきなのかもしれない。
「近い、けど、違うよ」
「え? それは、どういうことですか?」
「ダンジョンの秘宝と呼べるものは存在する。でも、それはセイラムのものではないよ」
あっ、ここで言うダンジョンの秘宝はダンジョンを操る道具って意味ね、と補足される。
……思わず目を閉じる。
もう疑いようもない。トリシェルは知っている。
ダンジョンについて、それを取り巻く何かについても。
セイラムの関係者と聞いた時は、まさかとも思ったけれど。
見て見ぬ振りをしてはいけない。
目を開く。真っすぐ前を進むトリシェルの背中を見据える。
俺は知らなければならない。何が起きていて、何をしなければならないのか。
「ダンジョンって何なんですか? セイラムは何をしようとしてるんですか?」
もしも、セイラムがダンジョンをある程度操れるのなら、俺を求める理由は何なのか。
姫という言葉の真意とは。
知りたい、知らなければならない。
「……それは、私の口からは教えられない」
「どうして!」
「ごめんね」
振り返った顔が凄い泣きそうで、俺の二の句を封じてくる。
そんな顔されたら、こっちが悪いみたいじゃないか。
「いつか」
「いつか?」
「全部わかるときがくるから。それまでは、お願い」
いつかとはいつなのか。聞けない。聞ける雰囲気ではない。
普段ふざけているトリシェルが懇願している。
そんなの、ずるいだろ。
それ以上の会話はない。俺たちの足音だけが暗闇に響く。
ちゃんと進んでいるだろうか。戻っていないだろうか。不安になる。
そして――ふっといきなり目の前が暗闇に包まれた。
「な、なに!」
叫んでもすぐそこにいるはずのトリシェルから返事がない。
いや、これはなんだろう。足元の感覚もない。俺は地面にちゃんと立てている? もしかしてどこか穴にでも落ちたのだろうか?
足が止まる。まるで周囲の状況がわからない。
動けない。怖い。どうしよう。
先ほどまで感じていた空気の温度感すらわからない。
段々と意識まで闇に飲まれていく気がする。どこまでも、どこまでも、落ちていく。
俺は何だ、これは何だ? わからない。
何をしていたんだっけ? 何をするべきなんだっけ?
俺は……どこにいるんだ? そもそも、まだ存在しているのか?
そのまま意識が消えていきそう。ああ、もう…………。
「――ロット……ん。シャーロットちゃん!」
「トリシェル……?」
声が、聞こえた。
その声が闇に滲み、光が世界に戻ってくる。
ゆさゆさと景色が揺れている。目の前には鮮やかな青色。顔に触れてこそばゆい。
これは……背負われている?
「良かった。意識が戻った?」
「トリシェル、ですよね? 今のは――」
「セイラムがやった。触ってごめんなさいだけど、背負わせてもらったよ」
セイラムが……?
まだ体に力が入らない。僅かに震えている。
あれは、無だった。
何も感じないのに、意識だけあることの何と恐ろしいことか。
死ぬのとはまた違う。あれは薄れていく意識と何もかもを失う喪失感があった。
でも、これは今まで見ていた全てが嘘だったと言われたような気がして……気が狂いそうだった。
思い返そうとしただけで震えが激しくなる。
俺の太ももの下に回されたトリシェルの腕に込められた力が強くなる。きっと俺を安心させるために。強く触れていることを意識させてくれる。
「わた、わたしは……」
「大丈夫。ちゃんとそこにいるよ」
涙が溢れ出てくる。人と触れていることの安心感が噴き出て止まらない。
俺はここにいる。ここに、存在できている。
怖かった。本当に怖かった。
人目もはばからず、トリシェルの背中であることにも関わらず、声を出して泣いてしまう。
その間、彼女は何も言わずにただ俺を背負い……進み続けてくれた。
「……泣き止んだ?」
「ぐずっ。はい、ありがとうございます」
「今のはセイラムの仕業だね。このダンジョンは……本来ああやって感覚を奪うものなんだ」
このダンジョンは段階を踏むごとに五感を奪い去っていく、そういう作りらしい。
本来は深くなれば深くなるほど奪われていくらしいが……セイラムがダンジョンを捻じ曲げて、一時的に深層と同じ状況を作り出したとのこと。
やっぱり。セイラムはダンジョンをある程度任意に操れるんだ。
「私が、戻れたのは」
「少しだけ、私も真似事ができてね。時間はかかったけど……」
驚いた。トリシェルもダンジョンに干渉できるのか。
……普段こいつがダンジョンに潜らないのは、ひょっとするとこの事実を隠すためなのかもしれない。
散々無気力だなんだと言われて、いざ動くと槍が降るとまで言われて、なお動かないのは。
レイナードはこの事実を知っていてトリシェルをクランに入れているのだろうか。
俺は、知らないことが多いな。色々と知った気になっていたけれど。まだまだだ。
トリシェルの首に回す腕に若干力が入る。絞めるほどではないけれど。
「……もうすぐ下の階層に下りるよ。セイラムが動いたってことは、あいつと出会った可能性が高い」
「リヴェン、さん」
そうだ。リヴェンを助けに来たんだ。
俺は体が震えているのもあるが、トリシェルに背負われたままを選んだ。
負担をかけるかもしれないが、そっちの方が速い。今の俺は……まともに走れない。
階段を降り、第六階層。エリアボスがいる階層だ。
「うん、まだ死んでる。彼がここを通ったのはそんな前じゃないね」
「私たちが来たのに復活してないのは……」
「セイラムの影響だね。色々と捻じ曲げてくれちゃって……」
第七階層に入ると、空気が変わったのがわかる。
俺でもわかるほど濃密な殺気。リヴェンがいると知らなければ、今すぐ逃げようと提案していたであろう。
「シャーロットちゃん。歩ける?」
「……はい」
「いつ接敵するかわからない。悪いけれど、ここからは下りてもらうね」
背中から降り、地面を踏みしめる。
足の震えは、大丈夫。何とかできる。
トリシェルは持ってきていた長杖を手に持ち、闇の向こうに構えてから進む。
俺も、その後ろについて行く。
リヴェンは大丈夫だろうか? 既にやられていたらどうしようか。
……あの無の中で、狂っていたりしないだろうか。
不安は幾らでも頭に浮かぶ。
出会いたいのに、出会いたくない。相反する思いが胸の中で渦巻く。
「下がって!」
トリシェルの叫び声と同時に、俺は後ろに跳んだ。
反射だった。少し遅れて、金属音が聞こえる。
「ほんっとうに力が強いね君ね……」
「トリシェルっ!?」
「近づかないで!」
暗闇が靄のように広がって、明確に姿を把握できない。
トリシェルと、誰かがぶつかり合っている。
一方的な攻撃を、トリシェルは杖を使って防ぐ。防戦一方だ。
こいつレベルの身のこなしでも、防ぐのが精いっぱいだと。
相手は誰だ。セイラムか? そんなにできる奴だったのか?
徐々に押されて、後ろに下がった俺の方へと二人が近づいてくる。
どうしよう、離れるべきだろうか。
悩んだ瞬間――暗闇の中で何かが白く輝いた。
それは、何度も見てきた光で。
少し後ろで見てきた煌めきで。
すぐになんだかわかった。見間違えるはずがない。
あんなにも頼もしく感じて、あんなにも感心させられたのに。
「……リヴェンさんっ!」
リヴェンが、トリシェルに襲い掛かっている。




