第44話:シャーロットと悪魔令嬢
世界が変わった。
登場が劇的なわけでもなく、演出が優れていたわけでもなく。
それまで俺の怒号によって作られていた空気が、吹雪でも吹いたかのように凍え切っている。
寒い。いや、違う。血の気が引いていっているだけだ。
人形のように佇んでいる彼女の姿が、詳細もわからないのにどうしてこんなにも恐ろしいのか。
彼女はそっと片足を引き、優雅な礼を見せる。
所作は無学な俺が見ても綺麗だと思わされたし、敵意が垣間見える動作なんてどこにもない。
なのに、どうしてこんなに俺は怖いと感じている?
「私は北の王国より参りました、ロザリンド・ラウディナル。通称……“悪魔令嬢”と呼ばれておりますわ」
微笑んだ。気がした。
今すぐ跪きたい葛藤に襲われる。直接上から巨人の手のひらで押さえつけられてるかのような圧を感じる。
本能が叫んでいる。あれに逆らうな、と。
怪物? 内心のどこかで誇張だと思っていた。けれど、違った。
俺でもわかるレベルで、あれは怪物だ。
「見事な出し物でした。大変、楽しませていただきましたわ」
取ってつけられたようなわざとらしい拍手が送られる。
パチリパチリと乾いた音が会場内に響き渡る。その他の音は一切ない。
彼女はただそこにいて、何気なく動いているだけなのに、この場の全てを支配していた。
「全員、この場から避難! 非戦闘員を優先的に逃がして!」
呪縛を解き放ったのは、悲鳴にも似た誰かの叫び声。
少し遅れて、声に反応できた人々が動き出す。
圧倒的捕食者を前に、我先へと逃げ出そうと列を乱して出口へ走っていく。格式だとか、見栄だとかは二の次に、生存本能に従って。
「あら。賢明な判断だと思います。では……『状況保存』」
彼女を中心に風が吹いた。透明な膜がこの場を覆いつくすような感覚。
俺はただ漠然と見ていることしかできない。現実感が追いつかない。
なんだ、これは。何を見せられているんだ?
「シャーロットちゃん! 気をしっかり! 吞まれないで!」
「え? あ、はい」
「ちょーっと想像より威圧感が凄いかな? これが件の権能ってやつ? だったらいいんだけどなーって」
トリシェルに揺さぶられて、俺も現実に戻ってこられた。
危ない。完全に気をやられていた。
「……ありがとうございます。ちょっと気が飛んでました」
「シャーロットちゃんは非戦闘員なんだから、観客と一緒に避難しておいて」
……それが最善だろう。俺がいても、できることはおそらくない。
あんな怪物に立ち向かうなんて考えるだけでも恐ろしい。
戦うというのなら、足手まといにしかならないだろう。
直感でわかる。俺とは生物としての次元が違う。
「時間稼ぎ……になるかなぁ。まったく、逃げていい? って聞きたくなっちゃうよ」
「トリシェルから見ても、ですか」
「化け物も化け物だね。威圧だけでこれだけの圧を出すのは相当どころじゃないよ、まったく」
よく見ると、額に冷汗をかいていた。
いつも飄々としているこいつが、焦りを隠せないでいる。
この事実が、俺の認識が誤りであると現実逃避を許してくれない。
ステージの方へゆっくりと視線を移す。
そちらの方では、既に攻防が繰り広げられていた。
ステージの周囲にいた冒険者たちが武器を抜いて、彼女に立ち向かっている。
リヴェンは? 少し離れたところで、膝をついている。吹き飛ばされたときの影響が残っているのか。
「あら、あらあら」
「侵入者だ! 捉えろ!」
「名を売るチャンスだぞ!」
ステージ付近は危険が多いから、足止め程度の戦力しかないとリヴェンは言っていた。
その通り、彼らは名を売るために彼女に立ち向かおうとしているようだ。
ステージの上に立つ彼女を取り囲むように、冒険者たちが一斉に武器を振り上げ襲い掛かる。
スポットライトに照らされ、刃が幾つも煌めいて――。
「……申し訳ありません、羽虫を個別に相手するつもりはございませんの」
そのすべてが、赤く染まった。
一瞬の出来事だった。彼女を中心に黒い靄が噴き出たと思ったら、それに触れた人々の皮膚が裂け、全身から血が飛び散ったのだ。それだけじゃない、腕がおかしな方向に捻じ曲がったり、明らかにおかしい壊れ方をしている。
まるで、強い力が渦巻いてるところに放り込まれた後みたいな。
それこそ、巨人が手のひらで人間を捻り潰した後、と言うべきだろうか。
「……ははっ。あれが噂の超能力ってやつ?」
「ここに来てるってことは、一定以上の冒険者ですよね? それがあんな……」
「何もしてないのに、血だるまとはね。これは、ちょっと覚悟する必要があるかも」
ちゃらりと金属が擦れる音がした。
見ると、紐が付いた金属の輪を両手に握り、トリシェルはステージ上の彼女を睨んでいる。
紐が結び付けられるところ以外、輪の周囲は刃のようになってる。ペンデュラムとかこんなんだっけ。
「せっかく黒の一族が来てくれたんだ。眷属のひとかけらとしては、是非歓迎してあげないとね」
「トリシェル……」
「大丈夫。死にはしないよ。レイナードも今は避難を優先させてるけれど、すぐに来てくれるからさ」
そうだ、レイナード。
思えば、最初の逃げるように避けんだ声はレイナードのものだった。
二階の方を見る。阿鼻叫喚の人々に交じり、冒険者たちが避難誘導を行っていた。
一階には殆ど冒険者しかいない。だから、彼女に立ちう向かう者と、無様に逃走する者に分かれていた。
「ロザリンドォォォォォォォォ!」
地を叩き割るかのような怒号。リヴェンだ。
「ん? どうかしましたか、りーくん。そんなに叫ばなくても、私は聞き逃したりはしませんよ」
「お前を、ここで倒す!」
最初に吹き飛ばされた衝撃から身を立て直し、剣を彼女へ突きつけて宣言をした。
「ふふ」
――覚悟に満ちたそれを、軽く笑ってみせる。
「では、私へ見せて。いつもの通り、私はここにいますから」
彼女の袖から何かが這い出てくる。長い、紐? いいや、鞭だ。聞いていた、彼女の武器は鞭だと。
右手でそれの持ち手を掴み、彼女は頭上へ掲げて見せる。
「言いたいことも山ほどあるのでしょう? けれども、言いたいことを告げる権利は、力ある者にしかありませんよ!」
二人の戦いが始まった。
二人の射程差は、圧倒的にロザリンドの方が長い。身の丈も超えるような長さの長鞭と剣とでは当然だろう。
鞭がどういう武器かは俺にだってわかる。しなり、先端の速度が音速を超え衝撃で攻撃する。でも、見た目の派手さに対してそれほどの破壊力はないって聞いたことが――。
パアァン……。
乾いた単発の炸裂音。続いて俺が認識できたのは、飛び散る土煙。
ロザリンドが腕を振るった。その直線状、リヴェンが立っていた場所に砕けた破片が飛び散っている。
地面を、設置されていた椅子を、抉って破壊したのだ。鞭の先端が。
冒険者が暴れることも想定されてるはずの施設だ。そんな、簡単に壊れる作りにはなっていないはず。素材だって、ダンジョンで取れるもののはずだ。
それが……?
リヴェンは辛うじて後ろに跳んで回避していた。
しかし、喰らえばどうなっていたのか。中身が剝き出しになった椅子が教えてくれている。
それで済んでいれば、もしかしたらいい方なのかもしれない。
どこか頭の隅で考えていたことがある。
やってくる怪物姉は、リヴェンの事を溺愛していると。だから、出会っても大したことにならないんじゃないかって。
どんだけ甘い妄想だったのか、ようやく理解した。こいつは、こいつらのいる環境は、俺なんかじゃ測れない。想像の外にいるのだと。
「次」
無慈悲な宣告と同時に、次の攻撃が実行される。
線に、点に、一方的な暴力が振るわれている。空気を割く音が響く度に、会場のどこかが壊れていく。
スポットライトが当たる舞台の上で、鞭を振るうさまは指揮者のようだ。彼女の指揮通りに、一方的に破壊が実行されている。
長射程による、一方的な攻撃。一度でも喰らえば肉を砕き、骨を断つに違いない強烈な嵐。
繰り返し振るわれる残像すら残らぬ鞭が、リヴェンが立っていた場所に死を刻むつけていく。
そら追うぞ、そら追いつくぞと、急かすように。
何度も繰り返して、俺にも見えてきたものがある。
それは、よくよく見ると鞭が長い分一回一回の隙が大きいということだ。
うまく近くへ潜りこむことさえできれば、至近距離ならば鞭は無力。
振り回して遠心力を利用するあの武器は、ゼロ距離ならこんな破壊力を発揮できないはず。
ああ、でもそんなことリヴェンはわかっているはずだ。
だって、過去に何度もやり合ったと聞いた。なら、こんな簡単に思いつく対策程度試さないはずがない。
それに、近づくのは決して容易なわけではない。
気が付けば、随分と二人の距離が離れてしまっていた。
お互いが見合い、動かない。あれほど猛威を振るっていた鞭も、今は見に回っている。
おそらく、あの位置がロザリンドの鞭の射程限界なんだろう。
近づかないといけないのに、遠くまで追いやられてしまった。
他の冒険者は? リヴェンの助けになりそうなものを探すも、皆避難しているか遠巻きに見ているだけだ。最初に血祭りにされた連中を見て、迂闊に近づくことはできないと判断したんだろう。
手助けはすぐには期待できない。避難した人々が連盟に連絡して、対策部隊が来てくれるまでは……。来ても、戦いに入れるかは不安なところだけれども。
「油断大敵、だなんて思ってませんよね?」
不意に鞭があらぬ方向に振るわれた。
ステージ横が砕け、破片が飛び散る。
何がと思ったが、飛び散る破片の中から人影が転げ出てくる。トリシェルだ。
「バレたか~。流石に不意打ちさせてくれるほど甘くはない、と」
「その髪色……白の眷属ですね? 珍しい、てっきり滅んだものだと……」
「そりゃどうも! しぶとく生き残らせてもらってるよ!」
吐き捨てる言葉と同時に離れた礫は、ロザリンドの鞭がうねりはたき落とす。
同時に何かが彼女の頭上で光った。あれは……さっきトリシェルが握ってた刃が付いた輪!
ぐるりと大きな弧を描いて、勢いよく彼女の頭上に落ち――。
「見えていますよ」
左手を頭上に掲げて、容易く摘まんで見せた。
結構な速度で動いてたように見えたけれど!? そんな簡単な様子で摘まめるほど!?
「当然、そこまで見越してるよ。『燃えろ』」
「っ!?」
輪が光を放つ。
炎が輪より出でて膨らみ、ロザリンドの上半身を包み込んだ。
おお! これはどうだ!
「面白い手品ですね」
「……やっぱ、小手先の道具じゃダメかぁ」
炎が消えた時、そこにいたのは炎に包まれる前と寸分変わらないロザリンドの姿だ。
服や紙が黒いからと言うわけではない。何もなかったかのように、そこに佇んでいる。
もう興味はないとばかりに輪を離す。すると、吸い寄せられるようにトリシェルの手元へ返っていった。
「かたや覚悟不足。かたや火力不足。さて、どうしましょう?」
困ったと、こてりと小首を傾げて見せる。
その様はとても滑稽で――彼女にとって、この状況がなんでもないのだと思い知らされる。
……いや、これ。どうすればいいんだ?
勝ち目なんてあるのか、これに対して?
「ごめん、お待たせ。シャーロット、君はもう外に出てるんだ」
絶望の二文字が頭をよぎる中、俺の肩が叩かれる。
「……レイナード」
「大丈夫、勝てるよ。だから、君は信じて待ってるんだ」
その姿は、いつもの赤い鎧ではない――俺も知らない装備に包まれていた。




