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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 99 天正十一年春 13
忍城の水攻め。
史実ではこの城を水攻めにした秀吉軍の指揮官は石田三成。
総延長二十八キロの堤防をわずか一週間でつくり、攻略に挑んだとされる。
ただし、資料を読み直すとこの水攻めは秀吉の指示であり、三成の発案ではない。
そして、その結果であるが、地形や水量不足、そして堤防の決壊など様々な要因が重なってこの水攻めは失敗し、力攻めに変更したものの、水攻めをおこなった影響で城の周りはそれまで以上のすばらしい湿地帯となって攻撃側に悪影響を与え小田原城陥落まで持ちこたえた。
ただし、包囲戦をおこなうにはやや兵力が不足していたことも水攻めの失敗の一因であることから、ここで秀吉の三万の兵が参加しているのは大きいといえるだろう。




