もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 97 天正十一年春 11
だが、ここでこの城攻めの主将たる滝川一益と羽柴秀吉が攻城方法を巡り口論となる。
むろん信長からは増援を送ったのだから早期に城を落とせという命令がある。
包囲して兵糧を断つという方法は破棄されているのだが、史実にある南側から攻める正攻法を主張する一益に対し、秀吉は南側からの攻撃を囮に東の外曲輪を占領後、そこを拠点に攻め入るといういわば奇手を提案したのだ。
これは黒田官兵衛から出された策であるが、主将たる自分を囮役にするという秀吉の案を一益が飲むはずがない。
もちろん両者一歩も譲らず。
敵前での内輪もめに収集に乗り出したのが秀吉とともにやってきた信長の三男織田信孝だった。
信孝の仲介案は、言わば両者の意見の折衷案、つまりそれぞれの主張する場所から攻め上がるというものだが、ただし、東側から攻めるのは秀吉と宇喜多勢の三万だけで四国勢は南側から一益の指揮とともに攻め入るというもの。
翌日から戦いは開始されると、両者はお互いに競い合い、損害をものともせずに攻め込む。
城兵は僅か三千。
秀吉が攻めた外曲輪にいた北条方の兵は五百あまり。
そこを三万の兵が一斉に攻めれば防ぎようがない。
ほどなく外曲輪が落ちる。
一方の南側には二千の兵が回されていたものの、ふたつの曲輪をそれだけの数の兵では二万に兵よる力攻めには持ちこたえられず最も外側にある諏訪曲輪と大光寺曲輪を激戦の末落とすことに成功する。
さて、秀吉の奇策であるが、簡単に言えば、最初に言ったとおり本隊を囮にしてがら空きになった背後から攻め込むというもの。
大きな外曲輪に兵を待機させていた秀吉は、一益が三の丸曲輪と逸見曲輪に猛攻を仕掛け始めたところでその策を敢行する。
川を超えて二の丸へ攻撃を始めたのだ。
すでに多くの兵を失っている北条の兵が秀吉軍を簡単には抑え込むことができない。
さらに時間差をつけて今度は本曲輪の背後にあり深沢川からの道がある笹曲輪を経由して本曲輪へ攻め上る。
実はここが秀吉の本命となる。
大軍が押し寄せる前面に兵力の大部分を割いていた北条にはもう抗う術はない。
落城。
増援が到着してから十日間目のことだった。




