もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 96 天正十一年春 10
信長による小田原侵攻の前哨戦ともいえる各地にある北条の城の攻防戦。
そのなかでも最大規模ともいえる鉢形城。
その戦いはこのようなものとなる。
そもそもこの城を落とすのは滝川一益率いる上野信州勢だった。
だが、この城で完全に足止めを食らった。
難攻不落の城と世間で認知されているのはこれから挑む小田原城、大阪城などがあるわけなのだが、実をいえばこの鉢形城もそのひとつであった。
鉢形城。
歪な三角形をしたその敷地の北側から西にかけての一辺は荒川と崖によって完全な防御がされている。
この時点で攻め手は東側と南側の二方向からの攻撃に限定される。
だが、東側は水堀が巡らされている。
その内側は外曲輪と呼ばれるエリアがある。
そして、その先には再び深沢川とそれを掘とするような深い谷となる。
もちろん損害がどれだけ出てもいいという条件であれば力攻めでの攻略は可能であろうが実際にはそのようなことはないため、結局、ふたつの門がある南側からの攻めに限定される。
史実でもの結局攻めはこの方面からとなる。
もちろんそちらにも何重に防御システムが構築されているのだが、史実ではその最初の曲輪を陥落させたところで北条方が降伏して戦いが集結する。
だが、その気になればまだまだ抗することは可能だったとされている。
当然北と東から攻めあがることは不可能とみた一益は南から攻めるものの、落城する気配はない。
攻めあぐねていたところにやってきたのは四万の援軍となる。




