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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 95 天正十一年春 9
停滞が続く対北条軍に動きが出てきたのは、信忠率いる後詰めが戦場に到着してからだった。
織田信孝率いる四国部隊に羽柴秀吉、宇喜多秀家、清水宗治まで加わった四万が甲斐から武蔵に入ると八王子城攻撃を始めると遂に陥落。
手間取っていた八王子城を抜いた武将たちは武蔵一帯の平定に乗り出し、周辺の城を落としながら難攻不落の鉢形城へ軍を進める。
一方、信忠本隊は箱根の山に点在する北条の諸城攻略に手間取っていた徳川家康のもとに向かう。
信忠、次男信雄、五男信房という信長の息子、団忠正、斎藤利治、滝川雄利、津川義冬などの信忠と信雄の与力衆が付き、こちらも二万五千の大軍勢となる。
織田方の増援によって戦力が整ったところで戦いは再開され、山中城陥落から始まり、十日で箱根山中から北条方の城は消え、目的の小田原城一番乗りを果たしたのは家康と信忠ということになった。




