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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 94 天正十一年春 8
ここまでは攻め手こその違うものの、「慶長出羽合戦」と同じである。
そして、史実では最上義光が籠る山形城から八キロほどにある長谷堂城をほぼ十倍の兵力を持つ直江兼続が落とせず、撤退することになる。
地理的条件を考慮しても、一割以下しかいない城攻めに失敗したこの「長谷堂城の戦い」を根拠に、世間の評判とは逆に直江兼続は謀略はともかく実戦には不向きの武将という一部の評判があることを述べておこう。
では、ここではどうか。
指揮が猛将柴田勝家、そこに付く者も第一線の者たち。
しかも、彼らはあの春日山城を攻め落とした経験と自信がある。
当然ここでそうはならず。
千人の城兵に対して、佐々成政の鉄砲隊が城内の鉄砲隊を圧倒したのに続き、全軍が一斉に攻め入ると、わずか一日で陥落。
山形城が攻撃圏内に入る。




