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本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


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88/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 88 天正十一年春 2

箱根の戦い。


北条氏は山中城を中心にいくつもの城を用意していた。

史実はで六万の大軍勢で攻めた秀吉軍に猛攻に四千で守る北条軍は守り切れず一日で落城し、足柄城や鷹ノ巣城もまもなく陥落することになる。

だが、今回は徳川の兵僅か一万での攻撃。

さらにいえば、徳川は伝統的に城攻めが得意ではない。

秀吉のような大仕掛けは好まず、力攻め、またはごく一般的な包囲となるからだ。

むろん他の城を攻撃する余裕などないため、北条氏の希望どおり、戦線は膠着状態に入る。


伊豆の戦い。

最初の難関は北条氏にとっての重要拠点韮山城。

北条氏規と三千六百の兵が籠城をし、十倍の敵に包囲されながら四か月も持ちこたえるというのが史実となる。

ただし、これは秀吉軍が余計な損害を出さずに前進することを選択したためという側面もある。


だが、現在ここを攻めているのは、池田恒興や中川清秀など武勇の誉れ高い者たち。

しかも、そこに雑賀衆がいるのだから、当然競い合うように力攻めが開始される。

その織田軍内部の競争に巻き込まれるように徳川のものたちも猛烈な攻撃を始める。

競争心。

策とは無縁なものではあったが、それによって起きた破壊力は凄まじく、史実では四か月も持ち超えた城が落ちたのは十日後であった。


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