もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 84 天正十一年冬 8
当初は予定になかった最上征伐。
といっても。北条の次は東北の仕置きをおこなうつもりだった信長にとっては予定外というより予定が早まった程度のものだった。
さて、勝家の本拠地である越前から最上領まで向かう最短ルートは日本海沿いに越中から越後、それから出羽と進むものである。
当然このルートを使用して柴田軍は進むのだが、この越後から出羽の侵攻というのは、あまり有名ではないが実をいえば史実にもある。
上杉景勝による最上領侵攻である。
上杉対最上といえば、北の関ヶ原と言われた「慶長出羽合戦」は有名だが、その前段として存在する天正年間の上杉景勝による最上領侵攻というものが存在する。
だが、その結果、上杉は最上の領地だった出羽の庄内地方を制圧したうえ、秀吉よりそのまま領国として認められ、最上氏は内陸部に押し込められることになる。
ついでに書いておけば、景勝は秀吉の死の直前国替えをおこなうことになるのだが、このとき手に入れた出羽領は引き続き領有することになる。
ということで、勝家軍の侵攻はこの時の上杉軍の動きを参考にする。




