表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 84 天正十一年冬 8

当初は予定になかった最上征伐。

といっても。北条の次は東北の仕置きをおこなうつもりだった信長にとっては予定外というより予定が早まった程度のものだった。

さて、勝家の本拠地である越前から最上領まで向かう最短ルートは日本海沿いに越中から越後、それから出羽と進むものである。

当然このルートを使用して柴田軍は進むのだが、この越後から出羽の侵攻というのは、あまり有名ではないが実をいえば史実にもある。


上杉景勝による最上領侵攻である。

上杉対最上といえば、北の関ヶ原と言われた「慶長出羽合戦」は有名だが、その前段として存在する天正年間の上杉景勝による最上領侵攻というものが存在する。

だが、その結果、上杉は最上の領地だった出羽の庄内地方を制圧したうえ、秀吉よりそのまま領国として認められ、最上氏は内陸部に押し込められることになる。

ついでに書いておけば、景勝は秀吉の死の直前国替えをおこなうことになるのだが、このとき手に入れた出羽領は引き続き領有することになる。


ということで、勝家軍の侵攻はこの時の上杉軍の動きを参考にする。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ