もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 83 天正十一年冬 7
織田対北条の総力戦。
誰もがそう思ったところで天正十一年三月北からとんでもない情報がやってくる。
天正七年信長が「屋形号」授けた庄内地方の領主大宝寺義氏が最上義光との戦いに敗れ死亡、領地を最上氏に奪われる。
これ自体は史実であるのだが、大宝寺義氏は信長と友諠を結び、それを背景にして権力を振るっていたのだが本能寺の変で肝心の後ろ盾を失った結果そうなったという事情がある。
そのため本能寺の変が起きなかったこの世界でそのようなことになったかは微妙ではある。
ただし、大宝寺氏と最上氏は対立関係にあり、また大宝寺氏の当主義氏は評判が悪かったようなのでそれがなくてもそのような事態になっていた可能性は十分あり、ここでも実際に起こった義氏の死亡と大宝寺氏の事実上の消滅があったことにする。
むろん信長にとって義氏は駒のひとつであったのは事実。
だが、自分が背後にいることを承知で攻めた最上氏をそのまま放置しておくわけにはいかない。
さらに義氏は自らが「屋形号」を授けた者。
二重の意味で最上義光は許されざる者となる。
最上討伐が決定される。
本来であればふたつの的を同時に相手にするのは避けるべき手。
しかも、これから大敵北条氏との戦いが控えているのだが尚更だ。
だが、やむを得ない事情があったとはいえ、信長の戦いでは常にそれが起こっている。
幸いなことに背後の心配がなくなっている。
柴田勝家を中心とした北陸軍は北条攻めを取りやめ、東北へ遠征することになる。




