もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 82 天正十一年冬 6
一応、ここでその参考にする秀吉の小田原征伐を軽く説明しておく。
過程は省くが、天正十八年に起こるこの戦いはすでに前年の十一月に秀吉は征伐を決定しており、年明けすぐに行動を開始している。
二月初めから双方のにらみ合いが始まる。
そして、三月、秀吉軍の北条領侵攻が始まる。
まず上野、続いて箱根で戦闘が始まる。
三月下旬に箱根の要衝山中城、北条氏の伊豆西方の拠点韮山城、伊豆の南端下田城の攻防が始まる。
一方、上野から侵攻した軍は松井田城こそ一か月ほど耐えたものの、それ以外の城は簡単に落ちていく。
それは武蔵や下野、上総も同じ状況で、忍城などいくつかを除けばすぐに陥落した。
これは秀吉軍の数の力とともに、各城の城主クラスが兵を率いて小田原城で籠城するように指示を受けていたため、抗する力がそもそもなかったのである。
そうして始まった小田原城の包囲。
包囲する秀吉軍約二十万、籠城する北条氏五万。
ただし、小田原城は武田信玄や上杉謙信も落とせなかった城。
秀吉も包囲するだけで力攻めすることはなかった。
だが、包囲する側の食料が尽き撤退する、または包囲軍の背後に援軍が来るという、籠城する側が勝利する条件が成立しない以上、すでに北条の敗北は決定している。
そして、百日の籠城後降伏。
北条氏が滅ぶ。
これが史実の小田原征伐であるが、ここでは上野及び下野は織田領であるため、北方は武蔵国から始まる。
これが史実の小田原征伐であるが、ここでは上野及び下野は織田領であるため、北方は武蔵国から始まる。
また、史実では佐竹氏と国境を接していたのは伊達氏だが、ここでは芦名氏となる。
敵の敵は味方が基本である戦国時代のルールに照らし合わせれば、北条氏や千葉氏と争ってきた佐竹氏が信長に頼る。
北方で佐竹氏とぶつかっていた芦名氏は、佐竹氏と対立する北条に近い。
つまり、史実での伊達氏の役割を芦名氏が担うことになる。




