もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 74 天正十年秋 5
高野山に対する沙汰は信長が越後から戻ってきたところで決まることになる。
もちろんその間に双方からの使者が行きかい、最悪の結末を避けるための努力がおこなわれる。
滅び。
存続。
その二択であるが、高野山が最大限の譲歩を示さないかぎり、信長が前者を選択するのは避けられないだろう。
もちろんこれは秀吉に包囲されたときと同じ。
そして、これがその時に出された条件だった。
十七万石ともいわれる領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止。
もし、これを拒否すれば全山焼き打ちにすると秀吉は脅した。
信長は残酷、秀吉はその反対というイメージがあるようだが、多くの史実がそれを否定する。
信長の悪行として有名な比叡山焼き討ちが小規模だったのに対し、もし本当に高野山でそれがおこなわれたら秀吉は躊躇なくすべてが焼失したことだろう。
実際に同時期に秀吉に抗していた根来寺は完全な焼き討ちに遭っている。
だが、幸いなことに高野山はその条件を受け入れたため、今に至っているというわけである。




