もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 71 天正十年秋 2
紀伊攻めは大まかに分けて三方向からの進軍となる。
中央は筒井順慶軍。
西方から織田信張を主将でそこに雑賀衆と根来衆が加わる部隊。
東方から織田信雄と信包を中心とした織田家連枝衆に軍監として堀秀政という布陣。
七月初めになると摂津衆一万が西方部隊に、明智光秀の家臣明智秀満が兵三千を率いて加わったところで攻勢が始まる。
さらに四国の仕置きが終了したところで、四国遠征軍および四国の諸将が次々に戦線に加わる。
長曾我部元親、西園寺公広、来島通総、史実では毛利秀包となる小早川元総が西方部隊へ、新領土の仕置きで動けない光秀の代理として明智光忠が明智軍本隊を率いて長岡忠興とともに中央に、同じく中央部隊に秀吉が与力衆を含めてほぼ全軍を率いて加わる。
そして、東方には丹羽長秀、津田信澄が参加。
これで紀伊および高野山を三方から包囲する体制が完成する。
ちなみに羽柴、明智という主力級が二集団参加した中央部隊は高野山とぶつかることになる。
逆にいえば、そのためにここに配置したともいえるだろう。




