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本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 69 それぞれの状況 東北

残りは東北。


前述したとおり、上杉が消滅した直後となる天正十年十月、信長は東北の諸勢力に臣従するように求める書を送りつけたわけだが、そのなかの領国を接する芦名、伊達、最上、大宝寺がどのような状況かを確認しておこう。


芦名氏。

当主は蘆名盛隆。

天正八年に死去した先代の盛氏の頃が全盛期とされ、その頃は百二十万石を領し、五万六千の兵を有したとされるものの、資料によっては二十数万石ほどしかない。

ちなみに当主盛隆は盛氏の実子ではなく、もとは二階堂家から出された人質である。

ここでは二階堂氏の四万五千石を合わせて二十八万九千石とする。


伊達氏。

有名な伊達政宗が当主になるのは天正十二年。

つまり、このときは父輝宗が当主である。

石高は五十一万二千石。

天正十八年に百二十万石になったわけだから、政宗時代にいかに領土が増えたがわかる。


最上氏

当主は最上義光。

石高は二十四万四千石。


大宝寺氏。

大宝寺義氏が当主。

ここに書いた四家の中で信長に一番近い。

これは対立する最上氏に対抗するためであり、おそらく臣従の誓いを示すものと思われる。

石高は十五万石。


南東北のその他の勢力は、田村氏九万七千石、相馬市六万九千石、畠山氏四万五千石、岩城氏十万七千石、大内氏三万七千石、石川氏一万七千石、白川氏三万九千石。


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