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本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 67 それぞれの状況 関東 その3

前述した上杉謙信と武田信玄だけではなく、豊臣秀吉も城自体は落とすことはできなかった小田原城の力の根源。

それは堀。

堀というと現代人は水が溜まったものを想像するわけなのだが、小田原城の防御を強化していた堀には水が張られていなかった。

これなら簡単に突破できそうなのだが、そうならなかった理由はこうである。

幅二十メートル以上の堀を掘った土を両側に土塁として積み上げる。

堀の底から頂上部まで十五メートル。

さらにその角度が六十度前後。

つまり、堀を超えるには急こう配の坂を転げ落ちるように下り、絶壁を上るように上がらなければならない。

それは武具を纏った者には厳しいものである。

もちろん弓矢や鉄砲の雨の中でそれをおこなわなければならないのだ。

そして、空堀ではあるがそこには間仕切りのような壁があるため横移動はできない。


たしかに力攻めでは簡単には落ちないことはわかる。

そうなると、取り囲み、包囲戦しかないということになるのだが、その場合は小田原城の広さが武器となる。

そう。

中に人や食料を運び込めないように囲むことが包囲戦にとって肝要となるわけなのだが、広ければ広いほどそれに必要な数が必要となるわけである。


謙信は十万で包囲して失敗し、秀吉は二十万の兵で取り囲み、交渉で開城させたのも理解できるというものである。


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