もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 65 それぞれの状況 関東
もちろん史実の天正十年十月の関東状況はここでのものとは大きくことなる。本能寺の変で信長が死んだことから織田家が瓦解。
旧武田領のうち信濃の森長可と毛利秀元は新領地を放棄し美濃を目指して撤退、甲斐を本拠としていた川尻秀隆は一揆勢との戦闘で戦死する。
もちろん上野を領していた関東地方の司令官滝川一益も退却する。
そして、その織田を追い出しその地を手に入れたひとりが北条氏となる。
天正十八年の秀吉の小田原侵攻直前には伊豆、相模、武蔵、上総のほか、上野の大部分、下野の西半分、さらに下総や常陸にも勢力を伸ばしていた。
だが、ここでは北条が勢力を伸ばすきっかけになった本能寺の変は起こらない。当然上野には手が出せない。
この時点での領地は、伊豆、相模、武蔵の三か国。
さらに武蔵の北側も一益の領地となっている。
一応武蔵を一国支配していたとして換算すれば、北条氏は九十三万石となっている。
だが、武蔵の半分を奪われた場合、六十万石程度まで石高は減る。
当然一戦交えないわけにはいかない。
だが、相手は天下統一目前の織田信長。
とても勝ち目がないように思えるのだが、北条には勝算があった。
まあ、勝算というよりはどこかで和睦できる手段といったほうがいいだろうがとにかく圧倒的大軍が相手でもそれだけの戦いができるという根拠。
それは小田原城だった。




