もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 63 天正十年十月の現在地 その6
この時点ですでに史実には存在しなかった時間を過ごしているわけなので、実際に信長が東北、関東、九州をどのような形で治めようとしたのはわからない。
ただし、四国の長曾我部の例にもあるとおり、臣従しないものはすべて敵とみなすというのが基本方針と思われる。
そういうことで考えると、対上杉のための約束はすべて反故にされ、あらためて臣従を要求したときに東北の各勢力がどう動くかということになる。
これは関東でも同じ。
特に北条は織田に臣従するかどうかというのが一番の問題だが、武田討伐の頃から信長は北条に対して冷淡になっていたようなので、おそらく北条の領国を大きく削るつもりだったのではないだろうか。
九州については大友を足掛かりに動く予定で、秀吉に筑前守、光秀に日向守を与えていたとおり、九州の東側を光秀、西側を秀吉が主に攻め入るつもりと考えられる。
天正十年の九州は大きく分けて大友、島津、竜造寺の三勢力がしのぎを削っていたのが、竜造寺氏の根拠地に筑前があり、日向は島津氏の勢力下にある。
ということで、九州は大友氏以外の二者は滅ぼす、または一国程度を残して割譲という方針だったと思われるのでそれに沿って動くことにする。
もうひとつ。
畿内に残る紀伊の勢力であるが、実は本能寺の変直前に一番厄介だった雑賀衆の切り崩しに成功しており、根来衆はもともと関係は良好。
そうなれば抵抗していた高野山も信長の要求を飲むしかなくなる。
残りは紀州の国人のみ。
そう問題なくカタがつくと思われる。




