もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 62 天正十年十月の現在地 その5
領地は急激に広まったものの、それを統べる者が不足している。
史実で武田の旧領を配分する際に信長は森長可、河尻秀隆、毛利秀頼に非常に気前よく二十万石程度を与えているのも前線、しかも、旧武田の家臣がいる土地という以外に、人材不足という意味もあったのかもしれない。
つまり、ここで起こっている事態が実は信長にも起こっていたかもしれない。
まあ、それはともかく、上杉を退け越後を手に入れたところで、領地の分配はおこなわれたわけなのだが、やはり春日山城はそれなりの者を置かねばならないだろう。
本来であれば主将たる柴田勝家がふさわしいのだが、さすがに越前を有している勝家が春日山城を居城にするのは難しい。
では、佐々成政か前田利家がいいのかといえば、彼らも能登と越中の国持ちの身。
難しい。
柴田軍で残っている有力武将は佐久間盛政くらいだろうか。
ただし、盛政も加賀半国を領している。
となれば、残っているのは勝家の養子である柴田勝豊ということになる。
史実では勝家を裏切り秀吉に与しただけで終わる勝豊であるが、ここでは大出世というわけである。




