もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 61 天正十年十月の現在地 その4
光秀をどう遇するか。
やはり、ここが大きな問題となる。
たとえば、九州に手をつけるつもりがなければ近江にさらに加増してやればいいわけなのだが、九州にも軍を進めるのであれば主力部隊が畿内を本拠地にしているのは都合が悪い。
しかも、毛利に割譲させた出雲、石見、周防、長門を任せられるのは相応の力を持った者でなければならない。
ここで思い出してもらいたいのは、明智光秀が謀叛を起こした理由のひとつである「出雲、石見を与え、坂本城を含む近江にある領地を召し上げる」というもの。
この説の出所である「明智軍記」は資料としてはだいぶ劣るものであることを承知しているが、現在の状況を考えると非常に魅力的ではある。
単純な石高を示せば光秀の領国である丹波一国二十六万三千石。
そこに近江にある坂本城周辺を加えても三十万石を少し超える程度。
一方の出雲は十八万六千石、石見は十一万一千石、合計すれば二十九万七千石。
ここに石見銀山と出雲大社という石高に現れない打ち出の小槌がついてくる。
悪い話ではない。
というより、苦労して勝ち取った丹波を失っても十分プラスといえるものといえるだろう。
ついでにいえば、ここで毛利提案の「五か国割譲」に入っていなかった石見の名があること。
実は、信長はそれを加える予定ではなかったのかと思える記述である。
さて、話を戻そう。
「明智軍紀」と違い、ここでは毛利からの割譲が終了しているので不安要素はない。
そこに長門の十三万石を加える。
合計四十二万七千石。
石高でも十分に報われる数字であろう。
そして、これによって光秀の本拠地は次の進軍先である九州に近くなる。
これは播磨を拠点としている、同じく九州攻めを担うことになっている秀吉より有利である。
光秀が信長の命令を喜んで受ける。
もちろんこれまで自身に従っていた旧室町幕府の旧臣たちも連れ、西へ動く。
また、実はこの光秀の転封は信長にとっての良手であると言えるだろう。
なにしろ毛利から奪ったものの、それを治める者がいなかったのだから。
もちろん丹波をそのままに光秀に加増する手もあるが、拠点が分割される。
そして、ふたつの拠点があれば、旧領丹波が光秀の本拠になる。
占領したばかりの土地に領主不在という状態は望ましいものではない。
しかも、旧領主がすぐそばにいるのだから。
その点、光秀が三か国を領すれば、国内は安定するし、毛利への睨みも利く。
ということで、二転三転したが、光秀は旧領を失い、あらたに加増された山陰へ移ることとする。
そうなれば、近しい細川藤孝は丹後十一万石を捨て周防一国十六万七千石を手に入れる。
藤孝の旧領丹後を丹羽長秀へ、丹羽長秀に与える予定だった近江は信長の直轄領となる。




