もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 6 中国編
ここで毛利側の領地と石高を示す。
出来れば天正年間の資料があればいいのだが、それはすぐに手に入らなかったので、とりあえず本能寺の変があった天正十年から十六年後の慶長三年のものを使用する。
長門、周防、安芸、石見、隠岐、備後、備中、出雲、伯耆、美作。
これが部分的なものを含めて当時の毛利氏が支配していた国となる。
そして、それぞれの石高であるが……。
長門十三万一千石、周防十六万八千石、安芸十九万四千石、石見十一万二千石、隠岐五千石、備後十八万七千石、備中十七万七千石、出雲十八万七千石、伯耆十万一千石、美作十八万七千石。
合計百四十四万九千石。
ここから、秀吉に提示した五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲を実際におこなうとどうなるかといえば……。
毛利氏の支配国と石高はこうなる。
長門十三万一千石、周防十六万八千石、安芸十九万四千石、石見十一万二千石、隠岐五千石。
合計六十一万石。
五十八パーセント減となる。
そして、日本の旧参謀本部が示し、多くの場所で使用される「一万石あたり二百五十人」と軍役基準を使用して算出すれば、一万五千二百五十人の兵が養えるそれなりの石高ではあるのだが、ますます巨大化する織田に対抗するのは相当厳しい数字に見える。
だが、毛利にはこの石高に現れないとんでもない収入源があった。