もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 56 北国編
もちろんやってきたのは実質的な織田家当主織田信長。
ただし、やってきたのは信長だけではなかった。
長男信忠、五男勝長。
さらに弟の織田長益も参加する。
もちろん随行する将も安土城の留守を任された父に代わって参陣した蒲生氏郷、斎藤道三の子斎藤利治、史実では本能寺の変の後光秀に属し死を賜ることになる阿閉貞征、本能寺の変で討ち死にする団忠正や猪子兵助、佐久間信盛の子佐久間信栄など多数いる。
総勢一万。
ここから本格的な城攻めが始まる。
さて、織田信長は残虐なイメージが強いが、敵対していた者をすべて殺していたかといえばそうではない。
有名なところでは足利義昭。
あれだけのことをやりながら、命を助けただけはなく、京都に残ることを提案している。
さらに何度も裏切った松永久秀や荒木村重にも再び臣従するなら許すことを申し入れている。
さらに身内に関わるとさらに甘くなる。
尾張統一の前に覇権を争った弟信行。
もちろん信長は信行を殺害しているが、その息子信澄は津田信澄として史実でも信長の側近として活動する。
さらにあまり知られていないが裏切り激しく戦った浅井長政にも最後まで降伏勧告をおこなっている。
ついでに言っておけば、比叡山焼き討ちもその過程を見れば信長のおこないが圧倒的な悪かといえばそうではないように見える。
しかも、燃えたのも全山と言うには程遠い規模だった。
ただし、身内ではなく生かしておけば自身の利になる者以外、特に残せば今後災いをもたらし、ここで滅してもさほど問題がないとなった場合には容赦はまったくしない。
よい例が武田氏。
勝頼はかなり前から講和を提案していたが信長は無視していた。
毛利についてもここに含まれるように思えるのだが、理由は定かではないものの、前述したように講和の段取りはできていた。
そのため生き残った。
長曾我部は土佐の支配しにくさを考慮し土佐だけを与え残した。
無秩序に見えて、信長の取捨にはそれなりの基準があるように思える。
そこでその基準に沿って考えたときに上杉を残すか?
おそらくノーであろう。
なにしろこの時点でも上杉が臣従の意志を示していない。
潔いといえばそれまでだが、武田に続き、名門上杉がここで消えるのもやむなしといえるだろう。




