もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 50 北国編
浜松城から穴山信君の領内にある駿河江尻城、甲府、諏訪、海津城を経由して春日山城付近までは約四百キロ。
中国大返しのスピードであれば、一日二十キロ。
出発から二十日後には到着できる計算になる。
ただし、それが有名になるくらいなのだから、通常より速いということになる。
ということは、十キロくらいか。
となれば、四十日ということになるが、今回は間をとって平均十五キロ。
三十日ほどということにしておこう。
そして、その計算通り六月十日前後に浜松を出発した家康は七月の始めには姿を現す。
越中から越後に侵攻していた柴田軍はその十日ほど前、北上してくる織田・徳川の連合軍が海津城に到着した頃、周辺の支城や砦を落とし、後顧の憂いを排除し春日山城近くに布陣していた。
当然この頃には上杉方も南方からやって来る軍の概要を掴んでいた。
そして、それにどう対応するかという軍議は重ねられていた。
六月初めに魚津城が陥落した頃は各砦攻撃で数を減らしてやってくる柴田軍を要塞化した春日山城に引き込んで徹底的叩き、追撃粉砕するという策を用いることにしていたものの、六月半ばに徳川軍が北上していることから目的地は越後であることが判明する。
徳川だけで一万。
南信濃の織田軍をあわせれば二万近くになる。
柴田軍を合わせれば五万以上になる。
そこであらたな策が考案される。
各個撃破。
まあ、各個撃破とはいうものの、簡単にいえば、徳川軍が到着し包囲が完全に出来上がる前に柴田軍を春日山に呼び込んで叩き、敗退させる。
しかる後にやって来た徳川軍を同じ手で叩く。
うまくすれば柴田軍敗退を知って侵攻が中止になるかもしれない。
これが最善手。
いや。
一万の上杉軍にできるのはこの程度しかないといったほうがいいかもしれない。




