もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 49 北国編
ところで、六月四日に堺にいた家康が六月七日には岡崎に到着し、その数日後には浜松城を出立できるのかという疑問を持つ者もいるだろう。
では、史実ではどうなっているか?
六月二日本能寺の変が起こったとき、家康は堺にいた。
そして、有名な「伊賀越え」の末、六月四日または五日には岡崎に到着している。
そして、到着と同時に信濃及び甲斐への侵攻計画を動かし始め、十日には甲斐でその最初の一手が打たれている。
つまり、史実より二日だけ遅く堺を発った家康が六月十日に軍を動かすことは可能だったといえよう。
さらに本能寺の変が起こっていないこの世界は、史実よりもずっと安定している。
準備および移動はスムーズにできる。
なお、ここでは同行して越後に向かう、甲斐を治める河尻秀隆は史実では家康の扇動で起きた一揆の者たちに殺されている。
また、家康の与力として同行している穴山信君も家康が伊賀越えをしている同じ頃落ち武者狩りに遭い死亡しているので、彼もまた史実にはなかった時間を過ごしている者となる。




