表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 49 北国編

ところで、六月四日に堺にいた家康が六月七日には岡崎に到着し、その数日後には浜松城を出立できるのかという疑問を持つ者もいるだろう。


では、史実ではどうなっているか?


六月二日本能寺の変が起こったとき、家康は堺にいた。

そして、有名な「伊賀越え」の末、六月四日または五日には岡崎に到着している。

そして、到着と同時に信濃及び甲斐への侵攻計画を動かし始め、十日には甲斐でその最初の一手が打たれている。


つまり、史実より二日だけ遅く堺を発った家康が六月十日に軍を動かすことは可能だったといえよう。

さらに本能寺の変が起こっていないこの世界は、史実よりもずっと安定している。

準備および移動はスムーズにできる。


なお、ここでは同行して越後に向かう、甲斐を治める河尻秀隆は史実では家康の扇動で起きた一揆の者たちに殺されている。

また、家康の与力として同行している穴山信君も家康が伊賀越えをしている同じ頃落ち武者狩りに遭い死亡しているので、彼もまた史実にはなかった時間を過ごしている者となる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ