もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 42 北国編
一応史実にある出来事はそれを使用する。
ということで、まず五月二十七日に越中から撤退した上杉の同行から見てみよう。
天神山城から春日山城までは約九十キロ。
一日二十キロの行軍であれば五日、三十キロであれば三日もあれば到着する距離である。
つまり、本能寺の変があった六月二日ごろには確実に春日山城に戻っている。
そして、もうひとつの事実。
信濃から越後に侵攻していた森長可が六月八日に陣を敷いていた二本木で軍議を開いていたことである。
このふたつの状況を重ね合わせて判断すると、景勝と長可はこの付近でにらみ合いをやっていた可能性が高い。
数はほぼ同じ。
強さは上杉の方が圧倒的に上、と言いたいところだが、森長可も実は非常に強い。
織田軍の中では有名な戦闘狂を相手にあっさり勝ちというわけにはいかない。
さらにここで上杉が長可に完勝しても千人くらいは失う。
ほぼその場にいるのがほぼ春日山城周辺にいる総勢である景勝にとって四千の兵でこれからやってくる柴田軍四万と戦うのは厳しい。
おそらく直接的戦闘ではない方法で長可を退けることを考えていた。
一方、長可は上杉の強さを知っている
しかも、景勝は城に籠っている。
単独で手を出せば敗退するのはわかっている。
むろん戦略ゲームであれば森軍を捨て駒として使用し、上杉軍を城から引きずり出して野戦に持ち込む。
ここで森軍が全滅しても上杉軍の数を減らし、これからやってくる柴田軍の露払いをおこなうという選択もあるだろう。
だが、本物の戦いはそのようなものではないので、向こうから手出ししてこないかぎりあくまで対峙。
背後からやってくる柴田軍の到着までは。
そういうところであろうか。




