もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 41 北国編
天正十年四月。
柴田勝家率いる北陸方面軍四万越中の要衝魚津城攻めを始める。
三千八百の兵とともに魚津城を守っていた上杉方の将中条景泰からの救援要請が春日山城の上杉景勝のもとに届く。
ちょうどこの頃北越後で新発田重家が反上杉の兵を挙げていたため全軍で出向くことができなかった景勝は五月初め約五千の兵を率いて越中に向かう。
だが、圧倒的数で魚津城を包囲している柴田軍に手が出ず、天神山城で状況を見守るだけだった。
そして、景勝がかき集められるだけの兵を連れて春日山城を出陣すると、その間隙を突くように、三月十一日武田を滅ぼし、四月下旬に北信濃の海津城に入った森長可が五月二十三日越後への侵攻を始める。
さらに同じ日、上野国を領することになった滝川一益の臣滝川益重が沼田から越後への侵攻を試みる。
五月二十七日、長可が春日山城の南約十五キロの二本木まで迫ったところで、景勝は越中から撤退を始める。
背後の心配がなくなった柴田軍の攻勢に六月三日魚津城は遂に陥落する。
ここまでが史実。
史実では、本能寺の変を知った織田軍が撤退し景勝は危機を脱するということになる。
そして、この後景勝は関ヶ原までほぼ勝者の側に立つ。
そのため、ここからは完全にオリジナルとなる。




