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本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 39 北国編

次に天正十年六月の上杉の状況を確認しておこう。


越後すべて。

信濃北部。

越中の東半分。


どの資料でもこうなっているのだが、新発田重家は上杉に反旗を翻しており、越後全土を掌握していたとはいえないだろう。

信濃北部についても、森長可が北信濃から越後に攻め入っているので当然信濃はほぼ織田家の支配化にあったといっていいだろう。

越中に関しては、史実では本能寺の変の翌日魚津城が落とされているので影響下にあるのは三分の一というところであろうか。


そして最も重要な最大動員兵力であるが、関ヶ原の戦いは三万人を動員できたとしているし、謙信時代は十万人を動員できたようだが、この頃は石高にして七十万石程度。

例の基準を使えば、二万四千五百人となる。


なお、佐渡は多くの資料で謙信時代から上杉領であったとしているが、実際には上杉領になったのは天正十七年。

また金山も多くの伝聞に反して謙信時代には開かれていなかったとされる。

ということで、毛利氏のような隠し資金は上杉にはなかったということで話を進めることにする。


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