表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 38 北国編

さて、次は北国。

もう少しいえば、対上杉戦ということになる。

本能寺の変によって得をしたのは、毛利や長曾我部という意見が多いようだが、織田と上杉の領地を見た場合、上杉もかなり厳しく、下手をすれば天正十年十、そうでなくても翌年あたりにはこの名門も歴史から消えていたこともありえることから、上杉にとっても本能寺の変は天祐のいえるものだったのではないだろうか。


では、

天正十年六月の北国の状況を確認しておこう。


織田方の北陸方面の司令官は柴田勝家。

兵は四万。

史実にある本能寺の変の頃は越中魚津城を攻略中であった。

織田軍の魚津城攻略戦が始まると、上杉家当主上杉景勝は本拠地である春日山城から八千を率いて出陣するものの、武田領地を平らげた織田勢は信濃、上野から上杉領を伺う様子を見せると、あっさりと退却。

落城は時間の問題となっていた。


景勝軍撤退の引き金になったのは五千を率いて越後に侵入した信濃北部の織田の武将森長可。

実際にいくつかの城を陥落させていた。

さらに上野を任せられていたのは武田征伐の先鋒を務めた滝川一益。

ただし、こちらは周辺諸国との交渉中ですぐに全軍で上杉領に出るのは難しそうであった。

また、越後の北部では織田と手を結んだ新発田重家が動く。


非常に大雑把であるが、ここから話は始まる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ