もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 38 北国編
さて、次は北国。
もう少しいえば、対上杉戦ということになる。
本能寺の変によって得をしたのは、毛利や長曾我部という意見が多いようだが、織田と上杉の領地を見た場合、上杉もかなり厳しく、下手をすれば天正十年十、そうでなくても翌年あたりにはこの名門も歴史から消えていたこともありえることから、上杉にとっても本能寺の変は天祐のいえるものだったのではないだろうか。
では、
天正十年六月の北国の状況を確認しておこう。
織田方の北陸方面の司令官は柴田勝家。
兵は四万。
史実にある本能寺の変の頃は越中魚津城を攻略中であった。
織田軍の魚津城攻略戦が始まると、上杉家当主上杉景勝は本拠地である春日山城から八千を率いて出陣するものの、武田領地を平らげた織田勢は信濃、上野から上杉領を伺う様子を見せると、あっさりと退却。
落城は時間の問題となっていた。
景勝軍撤退の引き金になったのは五千を率いて越後に侵入した信濃北部の織田の武将森長可。
実際にいくつかの城を陥落させていた。
さらに上野を任せられていたのは武田征伐の先鋒を務めた滝川一益。
ただし、こちらは周辺諸国との交渉中ですぐに全軍で上杉領に出るのは難しそうであった。
また、越後の北部では織田と手を結んだ新発田重家が動く。
非常に大雑把であるが、ここから話は始まる。




