もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 33 四国編
白地城にやってきた使者が持ってきたもの。
それは、伊予西方を進んでいた織田別動隊のひとり斎藤利三が西園寺公広を介して示したあらたな和議に関するものだった。
この時点で降伏し信長に臣従するならば土佐一国の領有を認める。
ただし、今回の提案を拒否した場合、降伏は一切認めず長曾我部に与する者は老若男女問わずすべて殺す。
それがその概要であった。
もちろんその話はいくつかの裏話がある。
ひとつは光秀や利三と長曾我部氏との関係だ。
毛利との講和後、四国平定戦に参加するにあたって光秀からある依頼を受けた信長はいくつかの条件をつけてそれを承認する。
その条件は次のとおり。
元親に伊予、讃岐、阿波を放棄し土佐一国のみを領することを承諾し、今後信長に臣従することを承諾させる。
和議の交渉は光秀がおこなう。
元親が和議の条件を拒否した場合、長曾我部氏は滅ぼすが、その場合光秀は先陣を務めること。
そして、意外にも光秀の申し出を許し、厳しい条件はつくものの、とりあえず長曾我部氏を存続させる和議を結ぶことを許可した信長にもそれをおこなうだけの理由があった。
一領具足の存在。
もちろんそれはこれまで一向宗に長い時間を取られていた信長は理解していた。
これを軽く見ると痛い目に見る可能性があることを。
しかも、土佐は信長の本拠地から遠い。
それが起こるたびに兵を差し向けるには困難。
さらに農民なで斬りにした場合、肝心の領国経営に影響が出るうえ、それが四国中に飛び火したら手がつけられない状態になる。
三男信孝の讃岐でそれが起きた場合、救援が間に合わないこともありえる。
それならば、許しがたいものの、元親に臣従を誓わせ、治めさせたほうがよい。
極めて合理的な考えに基づくといっていいだろう。
当然ながら信長はその不安要素については語らず、あくまで光秀の心情を配慮したように振舞った。
その結果が白地城に届いた和議の提案であった。




