もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 32 四国編
七月二十日には讃岐、伊予はほぼ織田軍の手に落ち、西長尾城の兵と轟城から進軍する毛利本隊で睨みを利かせ元親を白地城に釘付けにしながら、阿波に転進した秀吉は三好勢に加勢する。
ここまでは膠着状態が続いていた阿波も戦況もこれによって一挙に動く。
まず、重清城が抜かれ、白地城への三方向が確立する。
阿波から海沿いに土佐へ向かうルートに点在する城も次々と開城を続け、土佐侵入もまもなくという状況になる。
この状況においても元親は白地城、そして、土佐本国での決戦を主張していた。
もちろん土佐国内で戦えば一領具足の真価が発揮でき、やってきた織田軍を叩ける。
そこで交渉すれば満足できるものが得られる。
それが元親の目算であった。
だが、家臣たちは別の考えをもっていた。
そう。
このまま戦えば、元親の言葉どおり織田軍に損害を与えることはできるが、そうなってしまえば、停戦の目はない。
信長は間違いなく長曾我部が滅ぶまで戦いを続ける。
長曾我部が生き残るためにはそうならぬうちに和議を結ぶべき。
長曾我部の内部がふたつに分離しかかったところで土佐から急使が白地城にやってくる。




