もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 3 中国編
備中高松城を水攻めにした秀吉軍。
それに対し、毛利軍は南側に陣を敷く。
もう少し正しくいえば、北西から南東へ陣を敷く。
毛利側の左翼は吉川元春、右翼は小早川隆景で、備中に所領を持つ諸将が要所を受け持つ形となる。
ちなみに毛利側の総大将輝元は高松城から二十キロほど西方の猿掛城に滞在していた。
つまり、毛利方は援軍を集中して運用できる状態ではなかったということである。
となれば、毛利方が多くの資料で登場する五万の兵で増援に来ていた場合でも、前線で指揮する両川の手元には三万程度の兵しかいなかったと思われ、実像も近いといわれる全体で数万となれば、前線には二万もいなかった可能性だってある。
そうなれば、包囲戦を挑む三万の秀吉軍と小競り合いはできても包囲軍を蹴散らして城兵を救い出すというのは難しかったのも理解できる。
さて、ここまでが実際の状況であり、もし、ここに明智本隊一万三千に、同行した諸将八千、合計二万一千が到着したらどうなるかを想像してみよう。
戦い方としては秀吉の本陣が近い南側に陣を敷く小早川軍と秀吉軍、やってきた光秀率いる二万一千は吉川軍と対すことになる。
ちなみに秀吉軍も戦闘に回せるのは二万ほどあるので、両川ともおよそ倍の数がいる敵と相対していることになる。