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本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 29 四国編

ここで史実にない戦いが起こるわけなのだが……。


たとえば、ゲームや小説の世界であれば、長篠の戦や関ケ原の戦いのように華々しい戦いを起こし、どちらかが全滅という結末を迎えるようにするのであろう。

だが、全滅するのは城を攻められたときか包囲殲滅戦という形になったときのみというのが実際の戦いで、野戦において大敗と言っても余程のことがないかぎり三割を失う程度のものである。

そして、双方ほぼ同数の野戦というのは史実ではあまりなく、万単位の兵を動員したものとなると、前述したふたつに三方ケ原の戦いくらいしか参考になるものは見つからなかった。


ということで、今回は長篠の戦いと三方ケ原の戦いを参考にすることにする。


植田城の戦い。

六月二十九日、植田城南方で起こった戦い。

戦力。

羽柴軍二万。

長曾我部軍一万八千。


一見すると織田軍は全軍で城攻めをしているよう思えるが、それをおこなっているのが信孝軍のみで、羽柴軍はこれからやってくる長曾我部軍を叩く算段をしていた。

そこに羽柴軍の背後を突こうと長曾我部軍が現われて戦いになる。

十分な備えを用意した羽柴軍の陣に長曾我部軍が挑む形になるが撥ね返される。

まさに長篠の戦いの再現のようだが、元親はすぐに羽柴軍の植田城攻めは自分たちを呼び寄せる罠だと察知し攻撃を中止し退却を始める。

羽柴軍は追撃を始めるものの、伊賀城を過ぎ西長尾城で進撃を中止し、ここに抑えの兵を置き、讃岐及び伊予の平定を優先させることになる。

長曾我部軍は戦いで三千の兵を失い、さらに脱走者も多数。

七月二日、白地城に到着したときには一万二千ほどに数を減らしていた。


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