もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 28 四国編
ここでひとつ補足しておけば、備前から四国に渡る場合、一番近いのは今回上陸した屋島より西、後の高松城に西方となる。
だが、史実でも宇喜多秀家率いる軍は、屋島に上陸していることから、ここが上陸するには最適だったということなのだと思われることから、ここでもその場所を上陸場所とした。
さて、長曾我部軍は戦うと決め、西長尾城を中心に陣を敷いたわけなのだが、これは高台に陣を敷くことによる有利さを得るものとして悪くない選択に思える。
だが、結果的に失敗だったといえるだろう。
たしかに待ち構える場所に羽柴軍が攻めてくれば、その有利さは生きる。
だが、相手も馬鹿ではない。
しかも、秀吉の傍らには黒田官兵衛こと黒田孝高がいる。
絶対にやってこない。
長曾我部軍が動かないと見るや、周辺をすべて制圧し、さらにこれ見よがしに平地に陣を敷く。
ついでに信孝軍を助け植田城攻めをおこない始める。
こうなると動かなければならないのは長曾我部軍となるわけで、結局有利な地を捨て、相手の土俵に乗らざるを得ない状況に陥る。
そう。
羽柴軍の疲労を攻勢の根拠にしたのだから、攻めに出るべきだったと後悔しても後の祭りとなる。
さらに長曾我部軍は長期戦が出来ないという問題もある。
撤退か植田城救援か。
元親は再び選択を迫られることになった。
そして、出した結論。
それは、植田城付近で待ち構える羽柴軍との一戦。




