表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 26 四国編

白地城から岡豊城までは八十キロ弱。

史実では本能寺の変を二百キロ以上離れた備中高松の秀吉が知ったのは三日の深夜。

急使であれば二日もあれば二百キロを走破できるということになる。

そうなればその半分の距離であれば翌日には岡豊城の留守居役のもとに元親を指令が届く。


ただし、即出陣とはならない。

最低でも一日は準備期間が必要であろう。

ここでは二日後の六月十八日に一万二千の兵が岡豊城を出発、四日後の二十二日に白地城に到着する。


この間、元親は北伊予から二千、阿波中央から千の兵を抜いて自軍に加え、白地城に残っていた三千と合わせて六千の軍勢をつくっていた。

土佐からの援軍を合わせて一万八千。


讃岐各地に散らばる四千と合わせれば二万二千。


信孝率いる八千を粉砕するに十分は兵数となる。

六月二十四日白地城に五百の兵を残し、長曾我部軍のほぼ全軍が出撃。

植田城を攻める織田本隊撃滅に向かう。


だが……。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ