もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 24 四国編
中国から四国に渡ってくるのは史実と同じ二ルート。
すなわち、備前から讃岐、それから安芸から伊予となる。
では、その詳細を見てみよう。
讃岐方面軍。
史実では、宇喜多軍がその主力となるわけだが、ここで羽柴秀吉が総大将となり、中国攻めをしていた羽柴軍の主力二万五千がそれにあたる。
六月二十七日には屋島付近に上陸する。
伊予方面軍。
こちらは毛利方が主力となるのだが、ここに高松城主清水宗治がたっての願いで加わる。
また、織田軍から目付も兼ねて但馬勢を中心として三千の兵を率いるに秀吉の弟羽柴秀長、明智軍からは斎藤利三が四千の兵を率いてこの軍に参加しているのだが、光秀ではなく利三が明智軍を率いることになったのは信長直々の命令でありその意味はやがてわかる。
そして、毛利であるが領地はこの後に安芸一国となる。
そのうえでの出陣命令。
もちろん毛利方からすれば忸怩たる思いであるが、ここで揉め事を起こせば、一時的な挽回はできても、最終的な滅亡は避けられない。
さらに、秀吉より「功があれば加増を信長に進言する」という言葉をもある。
居残り役となる光秀本隊に吉田郡山城を任せ、混乱のなか備中に出撃していたほぼ全軍で四国へと出撃することになる。
毛利に残った両川のひとり吉川元春はもちろん毛利輝元も加わった軍のその数二万。
その予定日は天正十年七月五日。




