22/118
もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 22 四国編
上陸した織田軍は三つにわかれて侵攻したが、長曾我部側は織田軍と対峙するほかにふたつの戦線を抱えていた。
ひとつは土佐から南伊予に侵攻し西園寺公広と戦う戦線。
もうひとつは東伊予から西進し伊予の覇権を巡っての河野氏との戦いがおこなわれていた伊予中央部の戦線。
むろん兵力を均等にわける必要はないのだが、四万に軍勢は本国土佐の残留部隊を含めた六つに分割される。
平均七千弱。
これなら力攻めをするのはやや難しく、史実でも本能寺の変直前に僅か六千の三好勢に阿波国内の城をいくつも落とされている。
さらに一領具足は普段は農業をおこなう者。
当然土佐国外に彼らを長く留め置くわけにはいかない。
とりあえず、兵力の濃淡をつけるため、南伊予には二千、北伊予に四千、阿波西部にある白地城を拠点とした讃岐方面に七千、白地城より東側の阿波中央には三千、阿波南部に八千、土佐本国に一万六千と振り分けることにする。




