もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 21 四国編
「中富川の戦い」は、史実であり、さらに同じ天正十年八月の出来事であるから、中身は別にしても四万の兵を動員できる相手に三好の六千をあわせてもその半数の二万の織田軍が戦いを挑むというのは特別な秘策がないかぎり、かなりの無理筋に思える。
こう考えると、毛利方から出ていた「五か国割譲に和議」を信長は受け入れる算段をしていたのではないかと思えてくる。
つまり、たいした護衛も連れず淡路経由で中国にいくのはその席に着くため。
そして、秀吉の援軍とされた光秀軍の真の目的は四国攻め。
そうなると、光秀が焦って本能寺を襲ったのも、今よりも理解できるような気がする。
腹心の斎藤利三の妹が長曾我部元親の兄石谷頼辰に嫁いでおり、その相手を自ら攻めるのは光秀にとっては喜ばしいものではなかったからだ。
このような話をしている専門家はいないようだから、もしかしたら新説かもしれないが、所詮根拠が乏しい妄想の産物。
あくまでここだけの話とする。
さて、話を戻そう。
やってきた相手が自らの半数、それを三つに分けたのであれば、大軍を差し向けて各個撃破するだけ。
この時点では長曾我部の勝利は動ないように思えるのだが実際にはそうではなかった。




