20/118
もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 20 四国編
実は四国に上陸した織田軍の侵攻ルート大きくわけて三つあった。
ひとつは現在の徳島市を南下するもの。
ふたつ目は徳島市から吉野川を遡るように四国中央を西進するもの。
最後は同じ西進ルートではあるがものの、海沿いに進み讃岐から伊予に向かうもの。
織田軍の総数は一万四千。
そして三好勢は六千とある。
三好康長率いる三好勢の主力は南下コースに挑み、千人程度は三好康俊とともに中央に配置されているものとする。
そうなると、織田勢としてはこの二ルートに対してもいくらかの加勢をせねばならない。
とりあえず、南下ルートに二千、中央ルートに千を送る。
さらに阿波における三好の本拠地である勝瑞城に三千を駐屯させ、信孝は残り八千を率いて讃岐攻略へと向かう。
資料を見ると信孝はこのような形で軍を動かすのは初めてのようだから、当然副将格の丹羽、蜂谷はここに含まれることだろう。
となれば、勝瑞城に逗留したのは津田信澄であろう。




