もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 19 四国編
六月六日に四国に上陸した織田軍であるが、ここでもう一度戦況を確認しておこう。
当事の状況を詳細に調べると、阿波の大半を押さえていたと想定していた三好氏だが、実際の勢力範囲は現在の徳島市内を流れる吉野川を境にした東半分と言ったところで、当初の想定よりずっと小さい。
讃岐も東半分がその勢力範囲と思われるので、そこから戦いを始めることにする。
史実でも阿波は三好康長に与えることを信長は約束しているので、基本的に三好氏の担当、讃岐は織田軍が受け持つという形で進める。
一方の長曾我部氏は、天正十年に起こった「中富川の戦い」の戦いを参考にして最低でも三万八千を土佐国外に送るだけの兵力をもっていたことになる。
そうなると、秀吉の四国平定時の長曾我部側の兵力四万というのもあながち嘘ではないということになる。
ということで、ここでは四万人という数を採用する。
ただし、これがすべて元親の家臣なのかは微妙と言わざるをえない。
なぜなら、土佐一国の石高は多くても二十万前後。
そこに阿波や讃岐をすべて加えても三十万石。
五十万石程度では多くても二万五千人程度の兵しか手元にできない。
実際に一時的には一万石あたり九百人を超える記録もあるが、ここでは正規兵は領有五十万石、一万石あたり四百人で算出、残りは有名な半農半兵「一領具足」ということにする。
長曾我部側の兵力。
正規の家臣団二万、一領具足二万、計四万とする。