もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 14 中国・四国編
では、あったはずの予定に沿って天正十年六月二日から少しだけ時間を進めてみよう。
六月二日。
静かな京都で信長は目を覚ます。
京都所司代村井貞勝に見送られて、信忠らとともに大阪へ向かう。
このとき、安土に使いを出し、準備させていた軍を出陣させる。
一方、一日に丹波亀岡城を出た光秀は丹波八上城に到着。
六月三日。
信孝率いる四国遠征部隊が大阪を出る。
目指すは淡路。
ここで翌日やってくるはずの信長を待つことになる。
光秀、三草山に到着。
六月四日。
家康、それから甲斐河内と駿河江尻の領地を安堵されその礼に来ていた穴山信君の見送りを受け、九鬼嘉隆自らが指揮する軍船に乗り込んだ信長、信忠親子が淡路に到着。
事前に伝えていた通り伊予と土佐の仕置きを発表する。
伊予のうち宇和郡約十万石を本領安堵の形で西園寺公広に、来島通総も来島城ほかを安堵、副将のひとりである蜂屋頼隆と九鬼嘉隆に伊予に領地を与えるという趣旨の朱印状を渡す。
また四国平定後丹羽長秀と津田信澄については改めて褒美を授けるとした。
そして、この時点でも土佐については明確にしなかった。
光秀姫路に到着。
六月五日。
信長、信忠親子が淡路を発し、姫路に到着し、出迎えた光秀軍と合流。
また、翌日安土から織田本隊も到着する。
この時家康は堺を立ち、浜松へ向かっていた。
これから始まる戦いの準備をするために。
六月六日。
信孝軍、四国上陸。
六月七日。
家康岡崎に帰る。
対毛利との話と不合する部分が出てきたのでどちらかを訂正する必要ですが、こちらを生かしたほうがよさそうです。