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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 118 天正十一年夏 5
信長から輝宗への書にはこう記されていた。
出羽国の領地を召し上げる代わりに、相馬義胤、大内定綱、畠山義続が所有する領地を切り取り次第与える。
不満は残るが生き残るためにはやむを得ない。
輝宗はすべてを承諾する旨を山形の柴田勝家に伝えるとともに下野から会津に攻め入っている信長にも書を届け、すぐさま南へ進軍する準備を始める。
また、すでに本領安堵となっている子政宗の妻の実家となる田村清顕に共同して相馬を攻める算段をおこなう。
大崎領に侵攻した佐々成政、前田利家、佐久間盛政、金森長近、森長可らは驚くべき速さで進み、名生城を落として大崎義隆を自害に追い込み、その勢いのまま葛西領へ進む。
一方由利衆を大宝寺義勝らと攻めていた秋田愛季と小野寺義道はさらに戸沢領にも侵攻する。
もちろん信長による「戸沢領切り取り次第」の証による。