もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 116 天正十一年夏 3
ここで明智光秀と徳川家康が戦線を離脱する。
光秀は新領地の経営をおこなう必要があり、家康も新領地伊豆の差配が必要であった。
むろん家康は信長の気分を害さぬよう酒井忠次と兵二千、光秀は斎藤利三と明智秀満に兵三千を預けて信長に随行させる。
また、信長は同じく新領地に封じた三男信孝と蜂屋頼隆にも領地に戻るように指示をする。
ただし、同行していた四国衆はそのまま軍に留まるように命じる。
これは毛利輝元も同様である。
そして、小田原を追われ大幅減封したもののとりあえず主だった家臣は生き残った北条氏直、逆に領地が増えた里見義頼、本領安堵の結城晴朝、忍城城主成田氏長なども軍に加わり続々と下野に集まる。
一方、佐竹氏は対二階堂、及び、同じく信長に臣従の意志を示していなかった岩城氏攻めを命じられる。
佐竹家当主佐竹義重としては、お茶を濁してやり過ごしたいところであったのだが、そこに付けられたのが羽柴秀吉、四国衆、さらに毛利輝元。
下手をすれば自身が滅ぼされる可能性がある。
止むを得ず、白川攻めに二千、岩城攻めに六千の兵を出すことを決める。
信長の隠れた標的である蘆名家は大荒れだった。
実家である二階堂家を助けたい蘆名盛隆と蘆名家第一の家臣の対立が起こっていたのだ、
当然、二階堂攻めどころではなくなる。
そして、決定される蘆名攻め。
滝川一益とその与力衆、川尻秀隆、毛利長秀が蘆名攻めを担うことになる。
後詰めも、信長、信忠親子、さらに五男信房、津田信澄、池田恒興、中川清秀、鈴木孫一などそうそうたるメンバーとなるのだが、ここに足利頼純に加わっている。
むろん戦力としてはたいしたものはないのだが、信長はここでの武功を理由に頼純に領地を与える予定なのはあきらかである。