表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 11 四国編

そして、史実にある秀吉の四国平定がどうなっていたか。


天正十三年六月。

淡路から五万の兵で阿波、備前から二万で讃岐、安芸から三万で伊予という三方向から攻撃を開始する。

それに対し、長曾我部側は合計四万を動員して対抗したとされる。

前述したとおり、四国の石高から考えた場合、これは相当無理をしたものと思われるが、それでも長曾我部元親は倍以上の敵を相手に戦いをおこなうことになる。

当然二か月後に元親が降伏。

土佐一国のみの領有が許される結果となる。


今回は基本的にこれを参考にする。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ