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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 11 四国編
そして、史実にある秀吉の四国平定がどうなっていたか。
天正十三年六月。
淡路から五万の兵で阿波、備前から二万で讃岐、安芸から三万で伊予という三方向から攻撃を開始する。
それに対し、長曾我部側は合計四万を動員して対抗したとされる。
前述したとおり、四国の石高から考えた場合、これは相当無理をしたものと思われるが、それでも長曾我部元親は倍以上の敵を相手に戦いをおこなうことになる。
当然二か月後に元親が降伏。
土佐一国のみの領有が許される結果となる。
今回は基本的にこれを参考にする。