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もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 106 天正十一年春 20
堀の埋め立て。
一見すると簡単であるし、効果も十分に期待できる。
それにもかかわらずそれを成功させたのは大阪城攻めでおこなった家康くらいであるし、その家康も休戦中、しかも豊臣方の許可を取っておこなったのだから、戦闘中にそれをおこなうのは至難の業ということなのだろう。
鉄砲や弓矢の攻撃を受けながら、それをおこなうのだから当然である。
それを踏まえて話を進めよう。
まず秀吉案。
城の西側に流れる川の水を流し満水になったところで小舟に乗った兵で攻めるつもりでいた秀吉に対して、黒田孝高より外側の土塁の高さを増すために必要な土で堀を埋めてしまったほうが簡単だと注進される。
鉄砲隊で城内の兵を制圧しながら俵に土を詰め堀に放り込むだけ。
難しいものではないとした。
光秀の案もほぼ同様で堀をある程度埋めてしまい、その後は力攻めを敢行するというもの。
一方の家康であるが、小細工なしの正面突破。
大手門を始め、堀越えをおこなわなくてもよい場所から一斉攻撃をおこなうべきと主張した。