もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 105 天正十一年春 19
だが、ここでそれとは別の方法を提案する者が現れる。
しかも、三名。
まず自己顕示欲の塊である羽柴秀吉。
信長に自身の才を見せつけようとした忍城の水攻めがうまくいかぬまま逃げるようにここにやってきた秀吉としてはここでもう一度奇策を披露して汚名返上を画策したのである。
続いて徳川家康。
軍資金はすべて自腹であったため、ここで長居することは負担が大きい。
そのような役を押し付けられたくない家康としては早期にケリがつく策を提案せざるを得ない。
もうひとりは明智光秀。
秀吉とのライバル関係があるうえに光秀は新領地に移ったばかり、領国に帰りたいのは家康以上。
そうかと言って単純な力攻めをしては損害を増やすばかり。
その解決策を見つけたのである。
三者はともにこの城の強みが堀にあることに気づいていた。
つまり、堀が乗り越える策を考えればいい。
そして、出てきたもののひとつがこれである。
堀の埋め立て。
もちろんこれは家康が大阪城を攻めた「大阪夏の陣」前におこなった策である。
目障りな真田丸破壊を含む外堀と内堀を埋めてしまう過程は多くの場所で語られているわけなのだが、ここではそこまで大規模な埋め立てではなく進入路の確保という意味合いが強い。