もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 10 四国編
とりあえず中国地方が一段落したので、次は四国。
まず、史実に基づいた天正十年六月の状況である。
四国統一を目指していた長曾我部元親に対し、信長は土佐と阿波の一部のみを領有することを認めると告げ、伊予を残しほぼ目的を達していた長曾我部元親は当然拒否し、衝突は避けられない状況になっていた。
中国侵攻が順調に進んだことで信長の四国侵攻計画が実行に移されることになり、三男信孝を大将、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄らの諸将をつけ、一万四千の兵を渡河の準備をしていた。
また、それとは別に織田軍の四国の拠点となる阿波では三好康長らが長曾我部の城を落とすなど準備が進んでいた。
渡航用の軍船は九鬼 嘉隆率いる九鬼水軍だけではなく、雑賀衆、さらに周辺の船をかき集められたものとなる。
ちなみに長曾我部の領国と石高は、土佐九万八千石、讃岐十二万六千石、阿波十八万四千石、四十万八千石。
例の軍役表を使えば、一万二百の兵が動員可能となる。
ただし、ほぼ四国統一後に起こった秀吉との戦いでは四万人ほどの兵を動員していたとされる。
四国の石高で四万人の兵を動員するには一万石あたり五百二十人を動員する必要がある。
伊予を差し引いた四十万八千石にそのとんでもない軍役をかけると二万人一千ほどの兵は確保できる。
しかし、伊予の攻略は三分一ほどしか進んでいなかったため、少なくてもそのうちの五千は伊予に張りつけになっていたと思われる。
なお、別の資料を参照すれば、天正十年の長曾我部氏の支配地域は土佐一国と阿波の西側と土佐に接する一部、讃岐も西半分、伊予の東側である。