おこもりさま
3つの話が並行して進む。ファンタジーと、大のスイーツ好き主婦が出てくる外国の家族のところへ夫の客人が来る話、そして現代の若いカップルに話。
Aおこもりさまは山奥に住んでいて下女をひとり雇いつつ、ある匂いを探していた。ところがなかなかスムーズに進まない。ある日、下女は見つけた匂いを嗅ぎながらとうとう眠りに落ちてしまう。
Bイランに住むイラン人のイーラは今日のディナータイムのデザートのことで落ち着かない。そして遂にデザートと香辛料を買いに出掛ける。その途中、買う目的のデザート「空から」のことを考えてそのことで頭が一杯になってくる。
C大学生の瑠璃花は恋人の涼一が大好き。手をつなぎデート中。その最中、自分がもし彼と結婚したらこんなふうに手をつないで歩いていてその時、子供もいて一緒に転びそうになったら彼はどうするだろう?と考え始める。
このような調子で3つの話がそれぞれに進んでいく。
おこもりさまは東北の山奥のそのまた山奥の一軒家にひとりで住んでいた。推定年齢は五十歳。あまりにも長くこもっていたので自分でも実年齢は忘れてしまっていた。テレビも新聞も家族もいなくて二十四時間好きな時間に寝起きしていれば誰でもそうなるだろう。きっと。でも本当のひとりではなかった。若い下女をひとり使っていた。そう、使用人として。どこにそんな余裕があったかというとおこもりさまの親からの資金援助に間違いない。それで下女は嗅覚が麻痺していて匂いがわからなかった。おこもりさまは、そのところを実は大層気にいっていた。なぜかというと、おこもりさまは自分の部屋にこもってこの世のありとあらゆる匂いをミックスさせてブレンドさせてこれでもかと混ぜて混ぜてあらゆる悪臭、ではなくてとほうもなく気が遠くなるような、たとえて言うならばこの世とあの世の境があるとしたなら、その境界線に漂っているような匂いを探しているのだった。ちなみに断っておくが、彼が求めているのは女性がちゃらちゃらしゃらしゃらとつけている香水の類ではなかった。香るなどというものでなくあくまでも匂うという類であることに彼はこだわった。
一応だけど、下女は望みどおりというのか、その集め方のセンスは実にめためただった。
そしておこもりさまはそれにいちいち痺れていた。だってそれはゼロか百かという極端な可能性を示していて、もしかしたら大当たりがあるかもしれないと思っていたので。
いつ彼が匂い収集に目覚めたかというと、十四歳の時に図書館でヨーロッパの作曲家の自叙伝を暇に任せてパラパラと見ていたところ、偉大な誰だかのページで「彼は曲を作る時に、自分の書斎の机の中の一番下の大きな引き出しに山のようにどっさりとくさりかけの林檎を詰め込んでいた。そしていつもひとり曲を作る直前、その引き出しをそろそろと開けて、ひとつひとつ取り出してよおく眺め回したり撫でたりして、そのなんとも言えない匂いに包まれて、そこから自分の世界に入り作曲していたのだった」とあった。思春期のおこもりさまはここでインスパイアされてしまった。そしてこの時から密かに人生の目標、ではなく単なる趣味、でもなく裏の生き甲斐とでも言うべきものに目覚めてしまったのだ。
その時の彼には腐敗の一歩手前の林檎というのが、キラキラ輝く大粒の宝石の如き存在だったのでは?それが彼の源泉。
今日のおこもりさまがまとっている匂いは下女が見つけた三つのものだった。それは彼女が摘んだ朝露に濡れた濃い緑の苔とあめんぼが通った後の水と若い女性の六月のため息だった。
苔にはむしった彼女の手の匂いもほのかについていた。水にはかすかにあめんぼの気配がくっついていた。それにも比べて興味深かったのはため息だった。その時刻は新月でもあった。そう、外は真っ暗。人は暗くなると深く思考する、そんなことを誰か昔の偉い人は言っていなかっただろうか。たぶん。そう、それで暗かったからそのため息は重たくて、でも若い女性のものだったので柔らかくてほの暖かいものだった。おこもりさまはこれら三つを自分の手でミックスさせることを試みた。すると苔のグリーングリーンした匂いは水のにおいでさらさらと浄化され、あめんぼのアクセントが効いてところどころスパークリングカクテルのようにぱちぱちとした反応があった。そして六月のため息をそこに混ぜると一瞬にして煙が舞ったような気がしたが、それはあくまでも気のせいで爽やかさが消えて一気にとろりとしたものになった。「やっぱり人間のものは強過ぎたのかも」とおこもりさまはここでひやりとした。でもおこもりさまの辞書に「撤退」の文字はなかった。あくまでも「前進」「前向き」「ポジティブ」そんな語しか連なっていなかった。
あれ、でもおこもりさまは引きこもり、あ、失礼。こもっていらっしゃるのだからその、なんというかどちらかと言えば後ろ向きではないのですか。そんな単純な質問、出てきそう。それは違います。こもっているのは強い意志のもと、そう、自分で決めてそのようにしているので、決してたとえば世間からの逃避ではないのです。
で、話を戻すと、だからそのままおこもりさまは、その匂いの中でたゆたうことにした。彼は瞑想するかのように目を閉じて音も消した。そう、無を目指したわけだ。
するとまずは最初の苔のメッセージをキャッチしたのだった。
「今日も生まれてくる苔と死んでゆく苔。それでもそれは自然に流れていくというだけ。生も死も一緒。ある時限からある時限への意識の移動。ただそれだけ」
こんなメッセージ。そしてその苔にまだらについていた下女の手の匂いは、そのメッセージをほんの少しだけひねりねじりむしったので、こんな風に実はメッセージは変化していった。
「今日、生まれてくる苔と死んでゆく苔と両方あるようだ。自分にはよくわからないが、全部生きていて欲しい。自然の中での流れに死があるのなら、私はこの私の手でそれを止めよう。死は怖いから。なるべくそんな事情は発生させたくないのだから」
うーーん。
若気の至りってやつかな。全く、しょうがないな。死があるから生がいきいきしてくるんじゃないか。もう。わかってない。今度、説教してやらなきゃ。
そんなこと、ぶつぶつ言いながら、次にあめんぼ水に彼は鼻を近づけていった。それはあめんぼがつつつ、つつううううとスマートしなやかにスケートする人みたいにして通って、その跡が一瞬だけ線を引いていた。それは細い綿あめの最初のひと筋のよう。くるくると巻かれる前の。つんとしたスリムなあめんぼの気配、それは彼に薄荷飴のような冷たく澄ましたものの匂いを感じさせた。あめんぼが足をこすりつけたとこはツンツンしていた。
そこでどんなメッセージを感じたかっていうと「甘える者と甘えない者があれば甘えない者の方が一見いいのだけれど、実はよくよく見ていると甘える者の方が都合が良い」というもの。ツンツンした箇所は舐めてみると見た目と違いべたべた甘かった。
まるで砂糖をぎゅうっとにぎりしめて半分くらいに凝縮させたみたいに。まるで誰かの大甘の恋愛小説みたいに。
うん。これはイケてるかな。満足そうな表情を彼は浮かべた。こういう類が好みのよう。
そして最後の六月のため息。これは女性のものだった。誰かがそう言えば「この世でステキな匂いが三つある。その中のひとつは女のため息」と言ったとか。そのことをおこもりさまは思い出していた。でも彼からすればこの目の前にあるため息は、たとえば恋する乙女がつくピンクがかったものに感じられなかった。混迷している人々の途方もなく長く続く青みがかったため息だった。要は悩める者のため息。
どうしてだろう。若い女性のものなのに。あれ、確かさっきまではハートフルな暖色を帯びたものだったのに。
一体どこからやってきたのだろう、この悩める、目に見えずほんのわずかな気配だけ、それなのに強く訴えてくるこれは。
おこもりさまは順々に匂いをかいでいき、最後にはそれがだんだん混ざっていくと共に自分もとう酔してきてうつらうつら眠くなってきてしまい、とうとう本当に眠ってしまった。
イランに住んでいるイラン人のイーラは今日のディナータイムのデザートのことでイライラしていた。蕪を甘く甘くとろりと似たものを食卓に並べて最後に大きくため息をついたのだった。
「これじゃあ、メインデザートとして今ひとつだわ。どうしよう」
今日は久々にお客様がやってくる日である。それは夫の学生時代、同じクラスで親友だったイブラヒーム氏。イーラの家族は彼女と同い年の夫と小さな息子の三人。彼女は一瞬途方にくれて、でもその次に瞬く間に立ち直った。
「そうよ、蕪だけで足りないなら、まだあれがあるわ」
そうつぶやくと、彼女はあっという間に出掛ける支度をした。でもそれは簡単なものだった。ノンメイクで黒い頭巾で、ぐるぐると顔の半分と頭と体を覆い、そして出掛けるだけでオーケーなのだったから。そして彼女は時間がないとでも言いたげに、ばたばたと外へ出た。
「あ、そうだ。あの調味料も切れてたんだった。買わなくっちゃ。あの香りの良い物を」
道々、彼女はトータルふたつのお買物を思い出した。
空から空から空から
そんな言葉が彼女の頭の中にくるくる浮かんでいる。それは彼女がちょっとおかしくなったのでは決してなくて、「空から」という名前のお菓子のことだった。そう。それは口に入れるために齧ると、ぬああーっとゆるく伸びるようなヌガー状の砂糖のお菓子。たぶん出来立てはほんとに長々と伸びるに違いない。その中にはかわいらしいイエローグリーンのピスタチオがぷちぷちと顔を覗かせている。このお菓子はとっても柔らかくてどろんどろんしている。イーラの家族みんなが大好きなイラクスィーツだ。そのとろとろとろける加減のためにユニークな食べ方をする。小麦粉の中にぐるんと塊のまま、突っ込んでおいてその都度ちぎって食べるのだ。なんて美味しそうな、食指をそそる食べ方だろう。そんなところもイーラだってもちろん大好きだ。なんとも言えない香りが噛むたびにふわりふわりと彼女の花、じゃなくって鼻をくすぐるというわけ。
またこのお菓子は聖なるお菓子と信じられていて、旧約聖書にも出てくる。そこがどんなシーンだったかと言うと、聖書における重要人物がお腹を空かせてふらふらと荒れた野を歩いていたら、神様があまりにもかわいそうにとお慈悲のために、空から落としてくれたとか。しかもずうっとずうっと、この「空から」はこの聖書の登場人物たちが最終ゴールに着くまでの主食だったそう。有り難過ぎて、なんだか何度も何度も口にしたくなりそうじゃない?
それはほんとに口にするということもありだし、あ、ますますややこしいかな。こんな言い方じゃあ。要するに食べる他に、有り難いお経のように何度も何度も繰り返して唱えてみるの。
空から空から空から空からそらからそらからそらからそらからソラカラソラカラソラカラソララカソカラララララ?
なんてね。ふふ。
しつこくなるかもしれないけれどついでにつけ加えると、そのお経の合い間にところどころ、お拍子みたいに「日が高くなって」とか「溶ける溶けるとろけてく」とか「ホワイトホワイト」とか「密味密味」をつけるとなお引き締まって最高らしいの。
夫は仕事が遅くなるからという電話がさっき入った。ということは私と小さなあの子の二人でお客様の相手をしなければならない。
ふう。
ちょっと疲れそうかな。もちろん遠路はるばる来るというのだからもてなしてあげたいとは思うけど。まあ、話好きの人だったら、先方の話ににこやかにあいづちを売ってあげて、親身に聞いてあげて、それで大丈夫だろう。…。でも待って。もしも寡黙なお客様だったらどうするわけ? ええと。そうね、…あ、あれよあれ。うちのあの子は元気で始終口を動かしているから、あの子を話題の中心において過ごせば大丈夫よね。ああ、良かった。あの子がいて。
それでもってだから私は「空から」をたっぷりと買い込むの。そう、私もあの子もうちの人もみいんな甘いもの好きなのだから。
「空から」のお店で、イーラはひとつずつ数えながら、「空から」の入っている袋を買物かごに入れていく。
ええと。まずはあの子の分で二つでしょ、夫の分には、ええと四つかな。これでいいかなあ。あと、自分にも四つ。それで最後にお客様の分、…四つでどうだろう。でももしも大柄でとっても甘い物好きで足りなさそうだったら?そしたら五つかしら。そうなると計十五個になるわよね。…。どうかしら。十五ってあんまり割り切れない数よね。三と五では割り切れるけど、二や四では無理。これってなんとなく縁起があんまりよくないような。
…。
そしてここでしばらく悩んで、彼女はもうひとつ手に取り、十六個にして良しとすることにした。
彼女はそのために「空から」がひとつひとつビニール袋でパックされてずしりと山積みにされているところから最後のひとつを取ろうとした。それはもちろん、一番取りやすい最も上に乗っかっている「空から」だった。
その時、ふと彼女は気がついてしまった。この山となった「空から」の一番下の隅の方に、彼女の大好きな「空から」の端っこが含まれた「空から」があると。
そう、みなさん。この意味がわかるでしょうか。たぶんあなたもそちらも君もわからないでしょう。だから懇切丁寧に説明致しましょう。
「空から」は長々としたものが最初の完成形なのですが、細く長い物なので、左右にひとつずつ端っこというのを所有しているわけです。
そして実は彼女はこの端っこが大好きだった。端っことはイコールなぜかいじけた存在をイメージさせてしまうのですが、彼女の屈折した味覚(あ、そんなことを言っては失礼)は、やはり彼女のややわかりにくい思考の反映だと思うのです。
ちなみに彼女に言わせるとその「空から」の端っこがどんなに美味か、ですって。
それは(と彼女はいつか誰かに語ったことがある)、目立ち過ぎずということで、まるで謙虚で思慮深い人の静謐な思考に触れたような感動をもたらす静かで深くて厳かで、それでも決して妥協しないそこはかとない強さをもった、そう、隠れポリシーにあふれた味なの。たとえばじゃあ、具体的にどんな味なのっていうと、甘くておいしくてとろり。表向きはね。でもその奥の奥に少しさみしがりで少しナーバスで少し冷たくて少し意地悪で、でもぜえんぶまとめて魅力的、そんな味なの。えっ、ますますわかりにくいですって。そんなことを言うのはやめましょう。なんでも素直に受け止めることが一番なのですから。聞く側としては。たぶんね。
というわけで、彼女はこれまでの「空から」好きの経験で恐ろしいほどの勘を発揮して「空から」の端っこの存在を得たのですが、さて次の壁に突き当たりました。それは一体どうやって、あんなにも下の方にある「空から」を取り出そうかということだった。
幸い、まだ日は高いので、それは夕ごはんの素材を買いに来るお客は少なく、お客は彼女の他にいなかった。
それでもかといって、誰も見ていないからといって、これだけのどっさりある「空から」をひとつひとつ、この隣りの空いているスペースに置いていって、そして一番下にある「空からの端っこ入りの空から」を取り出すのは作戦が入りようだった。だって、本気でそんな作業をしていたら、あっという間に奥から店の者が飛んできて「ちょっと、あんた、何やってんだよ!うちの大事な商品に!!」って怒鳴られそうな気がしたから。
ふとレジの方に目をやると、その店のスタッフは本当のことを訴えても「はっ?」と言って怪訝な顔をして沈黙もしくはその次に威嚇してにらんだ目をするような人物にしか見えなかった。
それでも彼女はここで諦めたくなんかなかった。いつもなら彼女は大方のことは譲ることにしている。たとえば道を歩いていて向こうの方から人がやってくるとする。そしてここはまるで吊り橋のように細い一本道。そんな時、彼女は、すれすれすらない端っこに寄って道を譲ろうとしただろう。
でもたとえば今回のように、絶対譲りたくない部分が彼女の中にはあった。だからここは精神を集中して突破口を探ることにした。
目を閉じる。最初に訪れるのは暗闇。そして沈黙。無。そしてそしてこのわずか十三秒のちに彼女の頭の中にはひらめくものがあったのだった。
そう、あれよ!
彼女は財布の中から小銭を出した。一番小さい金額の小銭。そしてそれをややかがんでしゅっとその「空から」と地面の隙間に滑り込ませたのだ。
「あの、すみません。金貨が落ちて入ってしまったようなんですけど」
「えっ」
「すみません。ごめんなさい。だから十六袋買いますから、なんとかこの奥のものをどけていただけないかしら。もちろん、私も手伝います。あの小銭は大事な記念のものなんです。夫と結婚した年に記念に購入した大切な物なんです」
1 他に代えられないとても大切な物。
2 私も手伝います。
初め、この五十代半ばとおぼしき男性は彼女に訴えられた当初は、はっきり言ってめんどくさいな。小銭なんかどうでもいいじゃないか、それぐらい、とそんな顔をしていた。でも彼女の発言の中に1と2があったので少しは心が動いた。くらって程度にね。でも決定的とまではいかなかった。だからそのまま、少し困ったように沈黙していた。このままではいけない。だって今にも「そう言われてもね」のひと言でまさに片付けられてしまいそうだったから。
さあ、あともうひと息。この男にとってこの大盛りの束を「動かしてやってもいっか」と思わせる何かって何なんだろう。
彼女はここでまだ諦めずにぎりぎりまで望みを持とうとした。
きっと何かあるよね。あるわよね。あるに違いない。あるに決まっている。あるある、ほらあれよ、あれ。そう。あともう少し!あれあれあれあれあれだってば!ほらあれよっ!
彼女は、こうやって自分にプレッシャーをかければ何か出てくるだろうと強く信じたのだった。念の力はきっと強いに違いない。
そうだ!!!
ちなみに、皆さんは覚えているだろうか。この一連の作業のために、イーラの頭の中からはもうひとつのお買物、調味料のことはポーンとどこか彼方に飛んでしまっていたのだった。
ぎゅっ。
彼女は、後ろから彼に抱きつく。今、丁度、会ってから三時間三十五分経過したところだ。彼女はこの頃、彼にまとわりついている匂いが一番お気に入り。それは男性がつけるにしては珍しい薔薇の香料入りの香水だった。
涼ちゃん、あたしと待ち合わせる直前に香水つけたのかな。
大学生の瑠璃花は、彼氏である涼一と手をつなぎながら歩いていた。まもなく彼のひとり暮らしのアパートにさしかかる。彼女は彼にふと聞いてみたくなったことをまたまた思い出した。さっき、それは言おう思ったのに、何かの拍子にふっと彼女の頭の中から消えてしまった。そう、忘れてしまったこと。それがまた瞬時に思い出されたのだった。
「ねえ、涼ちゃん」
「ん、何?」
「あのね、昨日眠る前に考えたの、あたし」
「うん」
「このままあたし達ってつきあっていったなら、きっと結婚するんだなあって」
「…うん、」
「でね。そうなると子供とかできるでしょ」
「まあね」
「そう、たとえばひとりとか二人とか」
「うんうん」
ここで涼一は、彼女の話を聞きながらあらぬ方を見ていた。それはすれ違う女性の白いワンピースの裾から出ている足だった。
「で、ね」
「ああ、うん」
「そうなるとあたし達はたとえば親子四人というファミリーとなって、ある日、四人で家族で仲良くお買い物に出掛けるの。週末のショッピング」
「うんうん」
ちらちらと定まらない視線。
「すぐ近くに便利な大きなスーパーがあって、みんなで歩いて行こうってことで四人で手つないでくの。あ、でも四人で並ぶと道を占領したみたいになるから、二人ずつね。たぶん、上の子はもう大きいから涼ちゃんが手つないで、あたしは下の子と手つないでるの」
「うん」
白スカートの女性が椅子に座った途端、その足の開き具合はちょっと見事なものだった。
涼一の視線は釘付けになる。
「で、その時はたまたまボジョレーの解禁の日なの。で、じゃあ、ボジョレー二本ぐらい買ってこうか、って言って壜を二本、そしたらワイングラスがおまけでついてるの。二つ」
「うんうん」
「で、だから帰りは他の食料品も買っちゃったから、あたしと涼ちゃんで両手がふさがっちゃうの。あ、でも子供はちゃんとあたし達のそばを離れないで一緒に歩いてくとってもいい子なの」
「…」
「涼ちゃんが片手に食料品のいっぱい入った袋、もう片方の手にワインひと瓶。それであたしはたとえば右手にワインひと瓶、左手にグラスの入ったケース」
白ワンピの彼女がふいに足を組む。もちろん彼の表情は微妙に変化。特に目。
「ねね、聞いてる?」
「えっ。ああ、うん」
「で、ね!」
「うん!聞いてるよ」
「ここからが、いよいよクライマックスなんだけど。この話」
「うん」
「子供が、その前の日が雨だったせいか、つるりと滑って転んでしまうの。そしてなぜか同時にあたしも足を取られてつるるって滑って転んじゃうの。で、それでここが肝心なんだけど」
「うん」
「二人が一緒に転びそうになってる時に、面に打ってケガしないように咄嗟にどっちを助ける? 最初」
「えっ」
「あーっ、うわの空だったでしょ」
「そんなことないよ。急に予想外のこと言いだすからだよ。ちょっともう一回言ってみて」
「だから涼ちゃんからしてあたしと子供、どっちを最初に助けようとするかってことなの」
「…」
ここで始めて涼一は、瑠璃花と目を合わせる。
「ちなみにどっちって、言って欲しいわけ?」
「あっ、ずるい。そんなんじゃあ、答えを教えてしまうみたいじゃない。ちゃんと考えて自分の言葉で答えてみてよ。どうするかっていうのを」
「一緒」
「えっ、てことは二人同時に地面に体が、手とかつかないよう抱えようとサポートしようとするっていうわけ」
「うん、まあそういうわけになるか…」
「そうじゃなくて、じゃあ、こうだと? 両方の手にワイン瓶持ってて重いから、どっちか片方の人間しか瞬時には助けに行けないの」
「じゃあ、なるべく瑠璃花ちゃんの方」
「なるべく? そんなものなの?」
そこで、むうっとした顔を彼はした。
「だってそもそもいいの? そんな優先順位つけて。だって瑠璃花ちゃん、母親なんだよ。母って母性にあふれてるもんなんだよ。もし僕が母親だったら、そこで自分も転びそうになったって、その転びそうポーズのまま、子供に駆け寄るよ、まあ不可能だとしても気持ちだけでもそうすると思うよ」
「…」
瑠璃花は不満そうな顔つきになる。
「あたしだって問題だと思うよ。こんなふうに言っている自分って。ただ子供ができちゃうと、永遠に涼ちゃんから見た優先順位って、一・子供、二・大人のあたし、ってなるのかなあって」
「…」
「そう思うと、今は涼ちゃん、あたしのこと一番に思ってくれてると思うんだけど、変化していってしまう気持ちなのかなあって」
「…」
瑠璃花は悲しい顔のまま、黙る。彼もまた、目を逸らして黙ったまんま。
おこもりさまは、今、下女を自分の目の前に呼びだしたところだった。そう、軽くお説教してやろうと考えたのだ。死とは悲しいもの、と捉えているところに問題があると感じたので。もちろんそれは、下女に対して意地悪してやろうとか、自分の思想を押しつけてやろうとかそんな狭い了見からのものではなかった。だっておこもりさまはこう見えても、結構寛大なハートの持ち主だったのだから。愛と慈悲と情けをもって導いてあげようと思ったのだから。
「ところでこないだお前が取ってきた苔についていた、お前の手の匂いからわかってしまったのだけれども、どうやらお前は死というものにマイナーなイメージを持っているらしい。どうだろう」
そうおこもりさまが言うと、下女はどきりとしてふるふるとその体を震わせ始めた。
「はい、そう言われればそうかもしれません。私はいろいろなものが死んでなくなってしまうことが全体的に落ち着かないのです。でもそれは一応申し上げますけれども言い訳ではないのですが、部分的には受け入れていると思うんです。自分としては。でも全体的に受け入れるということに抵抗を感じてしまうんです。どうして全ての物は死んでなくなってしまうということに、私達は理解を示さなければならないんだろうと。もっと自然に捉えることができましたら、どんなにいいでしょう。楽でしょう。楽しいでしょう。自然でしょう。でもなかなかできないんです、これが。それは私がまだ若いからなのでしょうか。それとも女性という性のために感傷的になりやすいからそうなってしまうのでしょうか。それとも修行が足りないのでしょうか。それとも自分は鼻がまともではない、要するに匂いが感じられないから。そういうことと関係があるのでしょうか。もしかしてこの匂いに関して全く「鈍」であることが最大の原因であるとするならば、私は永遠に理解できないということになってしまいます。そうなると、もうこれは絶望的ではないですか。でも一応、信じていただきたいのですけれど、私だって救われたいと思っていますし、感覚的に平等でありたいと願っていますし、未来だって光輝いていると信じていたいですし、可能性をずっとどこまでもどこまでも夢見ていたいんです。これは、これはその、いけないことなのでしょうか」
これをジーッと耳を澄ませて聞いていたおこもりさまは、なんだか話がズレてきた気がすると感じた。
ふと下女の顔を見ると、涙がうるうるしているではないか。いつの時代だってそうかもしれないけれど、女の性がそんなポーズを見せたならば男の性としてはやはりたじろぐものらしい。おこもりさまは、あらゆるところから逃れてこもっていたわけだけれど、まだ男の性を捨てたわけではなかった。だから思わずここで下女をやさしく自分の手で抱きかかえて慰めてあげたいという考えがとちらりと脳裏をかすめた。でもそんなことはもちろんというか、ちょっと、やや、ほんの少し出来ないなとも思った。
過去においてあらゆる権力者達が自分の部下を好き勝手に弄んだということは、おこもりさまもあらゆる文献でどっさり読んでいたので、自分がこれから下女にそんな行為をするということは別に立場からすると悪いことでもなんでもないと開き直ることもできたけれど、彼は偉いことにせめてもう少し、わずかだけ我慢してみようかと捉えたのだった。
それはひとえに、彼が高潔な人物だったというわけでは当然?なくて、単にその時の気分的な判断に過ぎなかったのだけれども。
だから「この続きは次回に教えよう。とりあえず下がりなさい」と、言ったのみだった。
表には決して出さなかったけれど、実は微妙な心境のおこもりさま。彼の握られた右の手は我慢のためかしっとりと汗をかいていた。
イーラは、咄嗟にひらめいた。そして自分のお財布の中から大事な三十年前に購入した記念硬貨、それをこの山と積まれた「空から」のすき間にシュッと投げ入れた。
「ねえ、ちょっと。いいかしら」
「え、なに買いたいの」
レジにいたオーナーがおっくうそうにイーラーの方へと近寄ってくる。片手には今日のスポーツ新聞を握りしめて。
「あの、実はコインをこのすき間にうっかり落としてしまったの。そのお金は何年も前の記念硬貨でとっても大切なものなのね。主人と結婚した年にお祝いで買ったの。どうかお願いだから取り出したいのだけれど。自分でやるから、この積まれた「空から」をこっちの空いているスペースにひとつずつ置いていって、要は移動させていってもいいかしら」
「…うーん。しょうがないな。どっちかっていうと、まあ迷惑な話だけどね。手伝ってやりたいところだけど、今他のことやってるとこなんだよね」
オーナーはそっけなくそう言った。あんまりやる気がなさそうだ。
「ええ、良かった。それで充分よ。じゃあ、早速やらせていただくわ」
そう言うと、オーナーはまたレジへと戻った。イーラーは思わず、にっこりした顔を作ってしまいそうだった。でももちろん隠した。ようやくね。やっとね。はらはらしつつね。
さて、でもこれだけの山を少しずつ崩す、ではなくって少しずつ移動させていくことは忍耐のいる仕事だったかもしれない。でも彼女はまだお客様を迎えるには時間的に余裕があるし、うちのあの子がもしも早目に戻るとしても、それまでにもまだ間がある。そう考えると安心してこの作業に取り組めるということで嬉しくもなった。
そして手早くながらも、かつ注意深くその作業を始めたのだった。一番下から二番目の「空から」のためにね。
「アラビアジャスミンの夕方!」
集中して軽肉体運動に励んでいるとしか見えないイーラの後ろ姿に、元気に声を掛けた人物がいた。それは、イーラの家から三件隣りのムハンマドの妻、シャーリーだった。
イーラは、その声に一瞬振り向いた。返事の挨拶を返しながら。
「薔薇の夕方!」と、イーラも叫び返した。
これはアラビック式の挨拶言葉のひとつ。片方が「アラビアジャスミンの夕方」と言ったなら、それを受けたもう片方の人物は「薔薇の夕方」という返事をすることがお決まりのパターン。
イーラは、この挨拶言葉を聞く度返す度にアラビックの国に生まれて良かったなと思う。なんて美しい挨拶言葉なんだろう。他のどこの国にもないに違いないって。
それでもって、この挨拶を返した瞬間に。イーラは、「空から」の他にもうひとつ、大事な調味料を買うことを思い出したのだった。
あ、そうだ。あれ! ああ、良かった。思い出して。薔薇で思い出したわ。
「ねえ、一体どうしたの。イーラ。急にお菓子屋のバイトがしたくなったの。それともよっぽどお気に入りの「空から」が底の方にあって、それを取り出そうとしているの?」
ドキッ。
この女はエスパーだろうか。
「シャーリーってば、なに言ってるんだか。そんなわけないじゃない。今、私の大切なものがこの奥に落ちてしまったのね。転がっていってしまって。だからそれを取るために汗しているの」
「…ふーん。なんか大変そうね、まあ。とりあえず暑いから早く見つかりますように。私も夕飯作らなきゃ」
それだけ言うと、シャーリーは手伝う素振りなど全く見せず、口にも出さず、自分が買いたい物を買物かごに入れてレジの方へと向かっていった。
ちょっとスリリングだったわね。ふう。
次にイーラが、もう少しでお気に入りの「空から」に手が届きそうという時、またまた彼女の背後に声を掛ける人物がいた。それは男性の声だった。
「大丈夫ですか」
「えっ」
振り向くと品の良い笑顔を浮かべた中年の男性がイーラーの方を見つめている。
「あ、はい。もうすぐ終わるとこですから」
そう言いながら、イーラはとうとうお目当ての「空から」の端っこに辿り着いた。そしてそれを手にした。その瞬間、やった!という到達の感動の心が彼女の中に湧きあがってきた。
「嬉しそうですね。さてはあなたもなかなかの「空から」好きですね」
その男性は急にそんなことを言う。
イーラはなぜ彼がそんなことを言うのか、疑問符を頭の中に浮かべたまま、なぜかついその紳士の品の良い笑顔につられて、自分も彼に対して微笑みを返したのだった。
「実は、道を聞いてもよろしいでしょうか。この辺りは初めて来たんですけど」
「あ、どうぞ。私でわかることなら。この近くに住んでいますから」
「そうですか。実はアッサイラという人の家をご存じないでしょうか」
「…それは、うちのことです。あ、あなた、夫の友人のハーライさん!」
「え、ということは」
二人は、それからお互いの自己紹介をしながら、彼女の家へと向かった。両方の手にはそれぞれ、山のような「空から」を持って。そしてイーラの袋の中には例の調味料も入っている。
「「空から」って食べるものをその都度、毎回毎回心地良くさせる麻薬のような効果があると思いませんか?」
イーラはそんなことを口走っていた。
その話を受ける彼の方は大人のせいか、余裕の笑みを浮かべていた。
「涼ちゃん」
「ん?」
「なんか、あの香水、ドライローズっていうのが入っているの」
「うん」
「それでなんだけど、中東の方で採れた薔薇のエキスらしいんだ」
「ふーん」
「イラン産だって」
「…」
彼は、自分の部屋で彼女の話を聞き流しながら、ひとりでゲームをしている。彼女はやや不満気だ。
安上がりだからって、二人はコンビニでお惣菜とアルコール缶を買ってきて食べて飲んでテレビつけて寛いでいる。でもテレビを眺めているのは彼女だけ。彼はゲームに夢中。
ピーチネクターサワーを片手に、もう片方の手で彼のTシャツを引っ張る瑠璃花。
「ねえ、聞いてよ、戦争あった国の隣なんだってば」
「あ、ちょ、ちょっと待って!今ダメ!」
涼の右手と左手の動きがどんどん激しくなる。それにつれて一緒に瑠璃花の表情も激しくなってゆく。
「もう!」
おこもりさまは下女に質問をしていた。
「あの世とこの世の狭間に流れている言葉があるとすれば、そこに行ったとすれば聞こえてくる言葉があるとすれば、それはどんなものだろう」
下女は少し真剣に考えた。そしてこう応えた。
「え、と。どんな言葉かって言われると、それは、…フローラルな言葉、花の言葉だと。なぜならお花畑が見えるというではないですか。あと川を渡るというから、さわやかなそのそばにあるグリーンの言葉も聞こえるでしょう」
シーン。
おこもりさまは無表情だった。何の感動も得られなかったような、そんな表情。
「今の応えは二つとも平凡極まりない。その辺の人々をつかまえて聞いてみたならば大方の人がそう言うだろう。私の聞きたいのはそんなありふれて単純、考えなくともすぐに浮かぶようなことではない。いいか。明日の朝までに考えてくるように。もしもまたまたシンプルな答えしか用意していなければ、もうお前はクビになるかもしれないよ。言っとくが、これはおどしでも何でもない」
そう言っておこもりさまは自室にこもられてしまった。
ひとり残された下女。この間、終始黙っていたけれど、頭の中はガンガンと鐘が鳴っているようだった。
大きく外してしまったらしい。これは彼女に少なからずショックを与えた。でもだからと言ってもちろん落ち込んでいる暇などない。早く頭の中を総動員させて解答を導かなければ。実をいうとさっぱりわからないけど、思いつかないけれど。とにかくまだ時間はあるし、あるがままに次々と、とにかく進めてみよう。
下女は夕飯を作るところだった。それは自分のための自分だけの夕飯だった。
ころり。
冷蔵庫のすみをごそごそ探っていた下女は、ひからびたにんにくを筆頭にいくつかの食べ物を見つけた。
「あ、これってなんかになりそう」
だから、1安くて堅い牛肉と、彼女は書き留めた。次に、一瞬躊躇したがもういいやって感じで次々と、台所にあるものを候補として羅列していったのだった。
2玉ねぎ 3生姜 4りんご 5トマト 6きゅうり 7パセリ 8鶏肉 9黒豆 10ミルク
…。
一応、数だけはそろえたけれども、こんなんでいいんだろうか。それぞれに選んだわけを言いなさいってきっと言われるだろうなあ。それはまあ、これから考えてみるけれども。でもでももしもそれで「全然なってない。だから即クビ」となったらどうしよう。今さらどこにも行けないし。とにかくなぜ選んだかぐらいはしっかり言えるよう、しっかり考えてみよう。後は天命を待つ?なんてね。というわけで下女は食事の支度をしつつ、ピックアップしたものたちのそれぞれにおいて考えを巡らせていったのでした。
そのせいで、彼女はいつものどうってことないお料理メニューのはずだったのに、一回、包丁で手を切りそうになり、二回火傷しそうになり、三回皿を割りそうになり、最後にはとうとうお皿に盛ったスープをこぼしそうになった。あまりにも動揺していたからだろう。
彼女は嗅覚が麻痺していたため、食事の楽しみは半減していた。匂いのない食事というものが、どんなに味気なくてつまらないものか、あなたは想像出来るだろうか。はっきり言ってそれは通常の半分以下、三割ぐらいだろう。
今晩のメニューは、りんごとトマトと玉ねぎときゅうりとパセリと鶏肉とコチコチの牛肉とご飯と生姜と黒豆ををひたすらコトコトとミルクで煮たものだった。
そこに最後のひと振りで、薔薇の花びらを乾燥させた物をパッとかけた。
ちなみに彼女はかき混ぜなかった。だから、りんごとトマトのところはびりびりとジューシーだったし、玉ねぎときゅうりのところはパセリとからまり、それがアクセントになって緑の刺激がちくちくと彼女の口の中で主張があった。煮込んだ鶏肉と牛肉は、鶏と牛が実は親類関係にあるか、もしくは出会って愛し合ってしまったのかと思うくらい渾然一体となってとろける美味しさだった。そしてご飯のところは生姜のプチプチした感じに黒豆風味が加わりなんとも言えないヘルシー気分を彼女は満喫したのだった。
これらを瞬く間に平らげて、それから彼女は受験生の如く、机に向い瞑想しながらひたすら頭に浮かぶ言葉をつらつらと書き留めていったのだった。それはまるでお教のようでもあった。
…。
なんとなく、牛肉、かな。
彼女はおこもりさまの図書室スペースへ行って、調べることにした。辞書コーナーへ向かう。そこにはずらりといろいろな国の辞書があった。
さて、牛肉。
英語ではビーフ、フィリピン語ではバカ。フランス語ではビヤンドゥかブッフ。チベット語だと牛はパ。トルコ語だとスールエティ。スペイン語でバカ。あれ、フィリピン語と一緒。ま、いいけど。
それで彼女はこれらをどうしたかというと、全てつなげてみることにしたのだった。
するとこうなった。
ギューニクビーフバカブッフパスールティバカ
…。
なんかトップにギューニクを持ってくると間が抜けてるような。これは真ん中にいれましょ。ということで再構成。そう数えて十番目の「カ」をトップに持ってきた。
カブッフパスールティバカギューニクビーフバ
…。
それでもまだギューニクとビーフがつながっているところが安易な感じ。だからギューニクの最後の「ク」をトップに初めてみましょ。
クビーフバカブッフパスールティバカギューニ
…。
うん。いいんじゃない。自分って才能あるかも?
ちょっと何かの呪文みたいじゃない。彼女はこの自分のセンスにわくわくしてきた。そして完成したということで部屋を去ることにしたのだった。るるんとかってハミングしながらね。
イーラは客人と一緒に両の手に「空から」をたくさん抱え、家へと少し急ぐ。それにしてもまさか、こんなところでお客様と会ってしまうとはね。
「あの、「空から」のどんなところがどんなふうに好きですか」
イーラの唐突な質問。一瞬の沈黙が流れる。
あっ、これはしまったかも。ちょっとだけ後悔するイーラ。でもそんなややナーバスな気持ちは少しの時間、それはほんの十秒くらい、を経て心地よいものに変わったのだった。
客人は並んで歩きつつ、彼女の方を横目でちらり。
「そうですね、あのなんとも言えないつかみどころがないようなところ、ですかね」
あ、そう。やっぱりそう。そうなんだ。
「そうですよね、やっぱりそうですよね」
彼女は本当はもう少し複雑に言いたいことがあったけれども、そんなふうに思われそうな発言は控えることにした。さて我が家まではあと少なくとも十分はある。ここはやはり無難に沈黙すべきだろうか。それとも、ここまで大変でしたでしょう、などと言うべきだろうか。それとも一番無難なお天気の話にしようか。ええと。あ、それはそうと、あの「空から」の端っこがどうぞ私の元に来ますように。イーラは、さっきいきなり彼が登場したから、どっちの袋に「端っこ」が入ったのか気が動転してよくわからなくなってしまった。
うーん。
「どうしたんですか。何か考え事でも」
「あ、いいえ」
「…実は「空から」の食べ方で、僕はとりわけお気に入りのがあるんです」
「まあ、どんなのなんですか」
「ほら、さっき、あなたが買ったスパイス、薔薇入りの。あれを振りかけるんですよ」
「えっ、これ」
「そう、あのスパイスの中の乾燥させたバラの花びらが「空から」に振りかけて、自分の舌に感じる瞬間がお気に入りでね。なんかこう、繊細なんだけど、情熱的な赤を舐めているような」
「…ロマンチックなんですね。」
そして彼から薔薇花びらのエピソードが出たことがきっかけで、その後、二人の間に沈黙があった時、彼女の頭の中には、薔薇の花がいちいち思いだされたのだった。何度も何度も咲いている花が、ね。
二人は家に着いた。イーラは客人を居間に通した。そして熱くて甘いミントティーを用意。
「どうぞ。これ、主人の会社の人からのトルコ土産なんです」
インスタントのミントティーはもともと砂糖がたっぷり入っていたからさぞ甘いのに、客人はそこにさらにもうひと匙、お砂糖を入れる。
「甘党なんです」
彼は、イーラの方を向いて微笑んだ。
彼女は、少しどきりとした。その途端、自分の頬を、ミントティーのミントがなでたように感じられた。
あれっ?
「あ、それでは今支度するので、どうぞテレビでも見ていて下さい。もうすぐ主人も帰ってきますし。あ、息子は今日、友達のところに行ってるんです」
彼女は早速、下ごしらえしていたメインディッシュ、「ひっくり返しご飯」に取りかかった。これはお鍋の底にピーマンと玉ねぎ、それと羊肉を敷いてスパイスを振り、その上にお米を乗せて炊き上げたら、そのままお皿にひっくり返して盛りつけたお料理。
そしてイーラは作っている最中、さっきの薔薇の花びら入りスパイス好き発言のことを思い出して、いつもよりもうひと振り、さらにもうひと振り、そのスパイスをかけたのだった。でもこのスパイスはいわゆる混合スパイスで乾燥した薔薇の花びらの他に、ブラックペッパーとシナモンとオールスパイスとカルダモンとクローブとナツメグとジンジャーも入っていた。だからそれぞれが強い主張を「ひっくり返しご飯」の中で行うことになった。
「…。なんだか今日のメインディッシュはパンチが効いてるね」
夫はイーラにストレートに言う。
「…。ごめんなさい。なんだか張り切ってしまったの」
「…」
客人は黙っていた。でもその顔には「大丈夫、美味しいですよ」と書いてあるように彼女には思えた。
それでまたイーラは勝手にときめいてしまった。
あ、なんてこと。最愛の夫がいるのに。彼女は想像の中で頭を強く振ってこのいけない感情を追い出した。
ほっ。安堵。
そしてデザートタイムになった。イーラは飲み物として「酸っぱい」を出した。これは青いライムをそれはそれは、からからと乾燥させたものを煮出して甘くした飲み物。透き通ったグラスの中で爽やかな甘さをメッセージしてくれている。
これにさらに第一の皿は水牛のミルクから作られた生クリームに美味しそうに黒く光るなつめやしのシロップをかけた物。第二の皿は大甘に似た蕪。そして第三の皿に「空から」。そう、とうとう「空から」を盛りつけるイーラ。
私のお皿に「空から」の端っこを載せましょう。
彼女は夫と客人に背を向けながら、そうっとまるで罪人みたいに「空から」を盛りつけた自分のお皿のてっぺんに「空から」の端っこを盛る。
そして無事、山型に盛ったそれをみんなのところへ運ぼうとしたところ、夫がそばにやってくる。そして彼女にそっと耳打ちする。
「デザート、多くない?」
どきっ。
「えっ、そうかしら。大丈夫よ。だってお客様、大好きなんですって。「空から」が」
「ふーん、そう」
そう言いながら、夫は「空から」が盛りつけられたイーラのお皿をひょいと取り上げて居間の方へと行ってしまった。
「あ」
彼女はひとり小さく声を上げた。そう、夫が持っていった皿は「空から」の端っこが入っている方だった。
イーラの胸の中に不安がもわあっと、曇り空のように広がっていく。
「あたしの「空から」の端っこなのに」
そして彼女はキッチンの陰から「空からの端っこ」入りのお皿が客人の目の前に置かれるのを見てショックを受けた。
落ち着いて。とりあえず、今、大切なのは薔薇の花びら入りスパイスもあのテーブルに添えること!
イーラはスパイスを片手につかつかとリビングへと足を運んだ。
「薔薇の村っていうところの薔薇水から分離された薔薇のエキスが入ってるんだって。この香水」
瑠璃花は、パソコンの画面を見ながら、涼一に向かって言う。
「そうなんだ。たまたまネットで購入したんだけなんだけど、ね」
「ね、見て見て。ここの村、なんかステキ。行ってみたくなるなあ。この薔薇、預言者ムハンマドの薔薇っていうんだって。花が咲く季節にはこの村に入った途端、薔薇の香りがすっごくするって。…ほんとに薔薇づくし。ね、見てよ」
「…」
彼はちっとも瑠璃花の方を向いてくれそうにない。
「中東の国で摘まれた薔薇がこんなアジアの端の国までやってくるなんて、薔薇は摘まれ時に想像したかなあ」
「…何言ってんの?」
あ、どうしたんだろう。あたし、こんなこと思うなんて。
「あ、そう言えば、ねえ、さっきの話の続き、涼ちゃんってば!」
「なんだっけ」
「もしもあたし達が結婚して子供が二人出来て、それで週末に家族で買物行って転びそうになったらっていうか、転ぶ話。あたしと子供がほぼ同時に!」
「あー、なんか言ってたね。」
彼はそんなの、どうでもいいじゃない、っていう顔をしながら、それでもその表情は見せずに、彼女に背を向けたままだった。
もう。口だけでも、何か言えないの?
そんな顔をして見ている瑠璃花。
「ねえ、涼ちゃん、あたしのこと、好きなんだよね。ね、ね、好きなんだよね」
彼は彼女が熱心に言えば言うほど表情は冷ややか。もちろん、彼女はそれに気づかないわけではない。
「涼ちゃんってば!」
翌日、おこもりさまは早々に下女を問い質している。それは例の昨日の課題のこと。
「どうだ。何か出来たか」
「あの世とこの世の狭間に漂っている言葉ですね、はい」
「ほう、それなら早速披露してみなさい」
下女は、やや俯きながら、ためらいながら口にした。それは彼女が生みの親のせいか、すらすらとなめらかに彼女の口から滑り出ていったのだった。
クビーフバカブッフパスールティバカギューニ。
言い終えた下女は、一見厳粛で実に良い弟子のように振る舞って見えた。大きく開き直っていたのかもしれないし、実はもう内心は動揺で一杯だったからなお落ち着き払って見えていたのかもしれない。
「…」
おこもりさまは、しばらく黙っていた。年齢が進むといくら普通の人間であっても知恵と経験を積むせいで、どんどんどんどんエスパー的になってくるというものだ。ましてやおこもりさまは世間から離れて修行を積んでいるような身。だからさらに彼の感性は研ぎ澄まされてきているはずだった。
でも、この下女の編み出した呪文はあまりにも突拍子なかったので、レベルの高いおこもりさまの死角になっていたというのか、盲点というのかあまりのお手軽さに、彼は気づくことがなかった。
「いいだろう。ではその呪文を大事に飼うことにしなさい」
これだけを言い放ち、おこもりさまは奥の自室にまさにこもってしまわれた。下女はこの一連のおこもりさまの態度を見て、本当に自分はセンスがあるのかもしれない、と勘違いと自信の間をひとりゆらゆらとしばらく漂っていた。
とんびが鷹を産むという言葉があるけれども、下女が編み出したあの世とこの世に漂う言葉という名の呪文は、生み主よりも察しがよくまさに、とんびが鷹、だった。
下女は呪文の餌としておこもりさまの庭の薔薇を乾燥させて保存してあったもの、そう、花びらにさらにみずみずしく美味しくなるようにと薔薇のエキスをふりふりと、振りかけて出した。すると呪文は、その餌をうまそうに食らった。
そう。下女は薔薇の花で呪文を餌付けしようと試みたのだった。それは一見、成功したように見えた。これはちなみに一日目。
次の二日目、下女はまたまた呪文に薔薇の餌を出した。ところが、今日はやや微熱があった。ちょっと風邪をひいてしまったらしい。そうこの日の下女は、ちょっとくるくるぱーだった。だから薔薇の花びらにかける薔薇エキスなのに、それを手元が狂って呪文の頭の部分にだらだらとかけてしまった。
この瞬間、呪文はびっくりして自分がいるこの場での不快感を強く抱いたようだった。そして下女がふっと呪文から目を離した隙に、窓の開いたすき間からすうーっと外へと流れ出た。下女は嗅覚がなかったのと風邪のせいで、呪文の気配がなくなってしまったのにしばらく気がつかなかった。そしてそのまま、呪文が下女の元に帰ってくることはなかった。
下女が編み出した? 「あの世とこの世に流れている言葉」という名前の呪文は、あまりにも出来が良過ぎたために、おこもりさまに披露して、感心したおこもりさまが去った後、その呪文は下女の手をすり抜けて、風と共に空に舞い上がりどこかへ行ってしまった。
下女が、もしかして私の手元から逃げてしまうかもと、嫌な予感がして餌付けに、薔薇の花びらを薔薇のエキスにつけて乾燥したものをちらちらと振り撒いたところ、無事留まっていたのに。それは一瞬の油断だった。そして去ってしまった「あの世とこの世に流れている言葉」は二度と下女の元に戻ってこなかった。
イライラしているイランに住むイラン人のイーラは、客人が「空から」のはしっこを今まさに彼の右指でつまんで、あとほんの23センチで彼の口元に届くというこの瞬間、絶望を感じつつあった。
もうだめ、だめよ、だめなの、だめに決まってる、だめだめだーめ、め、め、め!
そんなこんなで頭の中をいっぱいにしながら、彼女じゃ薔薇の花びら入りの香辛料を、思わず自分のお皿に盛られた「空から」に振りかけた。その瞬間のことだった。
急にイーラの頭の中に、不思議な言葉がばあっと浮かんで広がった。
クビーフ…
その途端、彼女は自分の心の奥底からなのか、体の奥底からなのか、はたまたその両方からなのか、ぐうんと大きな力が湧いてきた。そしてすっくと立ち上がった彼女はつかつかと客人の前に歩み寄り、彼の手にしている「空から」のはしっこをつまみあげたのだった。
「あ」
彼の第一声と彼女が空からのはしっこを彼女の口の中になめらかな動作で入れたのはほぼ同時だった。
「あら、ごめんなさい。私ったらどうしたのかしら、いったい」
唖然とするみんな。
瑠璃花は、自分の出した質問に涼一が希望的な回答をしてくれないので、自分達って、もうだめかと気分が沈む一方だった。それでも涼一が、背を向けたまんまなのでさすがに頭にきちゃった彼女は、涼一お気に入りの薔薇エキス入りの香水を彼の背中にシュッとひと吹きした。それは少し意地悪したいという気持ちもあったけれど、そんなものの隅には涼ちゃん、あたしに愛を示してよね、っていう念も入っていた。
「あ、やったな! これ、高いんだよ。一万円もしたのに」
「だって涼ちゃん、冷たいんだもん」
ついでに今度は自分に向かって、シュッとひと吹き。そう、二人は薔薇入りのものに包まれた。すると涼一のまたもったいないという不満顔が発生したのと同時に、何かが瑠璃花の元にやってきた。その存在は彼女の頭の中でこんなふうに響いた。
クビーフバカリントフライシュクーブッフパスールティバカギューニ
彼が、急に彼女の方をくるりと振り向いた。
「どうしたの、涼ちゃん?」
ぎゅう。
涼一が、瑠璃花の手を急に強く握りしめてきた。
「わかったよ、瑠璃花ちゃん! そしたらこうしよう。もし両方の手にワインの瓶持ってて、ふさがってて、そこで瑠璃花ちゃんと子供が一緒にコケそうになったら、ぱってまずはワイン瓶を手放し、次に瑠璃花ちゃんの方にまずは片方の手を伸ばしつつ、もう片方の手は子供の方を向く、これでどう?」
驚いて丸い目をさらに大きく見開く瑠璃花。
「わーい、涼ちゃん、ありがとう!!!」
彼女は奇跡って起こるんだと思った。そしてさっき香水を涼一がまとってから、既に九分経過していることを時計で見てチェック。
自分が一番好きなこの薔薇香水入り涼一匂いが登場するまでには、あと二十六分あるんだ、って彼女は心待ちにしてた。
(了)