韓非子って誰
はい。本エッセイも後半戦でございます。
後半は韓非子の思想について解説&考察をしていきましょう。
韓非は紀元前二百年ごろの人物です。
この人は韓の国の公子、いわば王子様です。
若いころに性悪説で有名な荀子の元で学んだそうです。
韓の国は戦国七雄の中で最弱の国でしたので、韓非はこの状況を打開すべく韓王に上奏して富国強兵を説いたらしいのですが、すべて却下されました。
却下された理由は、この人が言語障害を持っていた為、人から見下されていたらしいとのことです。
障害と知能レベルには相関関係にありませんが、この手の偏見は今でも色濃く残っているので、あまり大きな事は言えません。
軽く見られ怒った韓非は著作に打ち込み、「孤憤」「五蠹」など、五十五編からなる政治理念を説いた思想書を完成させました。
その後、秦王政(後の始皇帝)が韓非の著作に触れ感激し、彼を秦の国に招きました。しかし、その才能を危険視した同門の李斯の讒言により殺害されたと、史記の韓非子列伝には書かれています。
(T _ T)//可哀そう。
ここから韓非子の人生を考察してみます。
韓の公子が荀子に学んだとのことですが、荀子は先に述べた孫子の母国、斉の国で教室を開いていた人です。そうなると韓非は斉の国に留学していたことになります。普通に考えると王子様が勉強だけを理由に、留学することは考えにくいので、斉の国に人質になっていたのかもしれません。
斉の国は当時の最新の学問が花開いた国ですから、人質とはいえ勉強のやり甲斐はあったでしょう。
まして、現代にも名が轟いている儒学の大家、荀子から教えを受けたのです。最高の環境だったでしょう。
韓非子は、国に戻ってから勉強の成果を提出しましたが、首脳部には受け入れられませんでした。
何故でしょう。
始皇帝が感激した著作のたたき台です。
韓王だって感激してもよさそうなものです。いくら言語障害があったとしても、上奏文の内容には影響ありません。
しかし、始皇帝は感激したのに韓王は退けました。
ここに謎があります。
始皇帝が賢くて、韓王が馬鹿だったで、話を終わらせてもいいのですが、それでは面白くありません。
勝手に推察しましょう。
まず、言語障害があった。
これも理由の一つです。
普段から馬鹿にしていた人物から、偉そうな文章を提出されたら、弁えろと窘めたくなります。
また、幼いころから斉の国に人質として送られていたとしたら、韓王との親密性が低かったのかもしれませんし、著作の内容から韓王の取り巻きに阻まれたとも考えられます。
ですが、私の考えではそれらは、要素の一つにすぎません。
もっと大きな理由があったと思います。
韓非子の策が受け入れられなかった根本的な原因は、韓の国にあきらめムードが漂っていたからです。
韓の国は戦国七雄の中では最弱です。
国の立地条件から経済力はあったようですが、軍事力が相当低かったようです。
戦国時代には燕の楽毅、魏の呉起、秦の白起など数々の名将が登場しますが、過分にして韓の国の将軍を聞いたことがありません。
魏の国が強かったころは、魏の国が代りに秦の国と戦ってくれましたが、韓非が生きていた時代は、魏の国力も下がり、韓の国は毎年のように秦の国に攻め込まれ、領土は縮小していたようです。
そんな状況下では、富国強兵策を献策されても実行不能だったのでしょう。
今日のご飯の心配をしている人に、来年に向けての話をしてもまともに聞いてもらえるとは思えません。
それと同じように韓の国の首脳部も、目の前の問題に対処することに背一杯で、長期的視点は持てなかったのだと推察します。
弱小国の悲しさですね。
一方、戦国七雄最強の秦の国は、いくらでも長期的スパンで戦略を立てることが出来たので、韓非の著作に価値を見出したのでしょう。
心の余裕が違います。
また、韓非子が首脳部から評価されていなかった説にも、いちゃもんを付けましょう。
韓の国は秦の国に攻められて負けました。仕方がないので領土を割譲する代わりに和睦を求めます。
その、和睦の使者の中に韓非の姿がありました。
韓の国にとってこの交渉は、生きるか死ぬかの瀬戸際の交渉です。そんな大事な外交交渉に、能力が低いと思われていた人が選ばれるとは思えません。
韓非子はそれなりに、いや高く評価されていたと感じます。
さらに、始皇帝は韓非子の著作の大ファンです。歓迎してくれたことでしょう。
韓非子への心証も良好ですから、和睦交渉もスムーズに進んだと思われます。
しかし、韓非子の運命は暗転いたします。
荀子の塾で同門だった秦の宰相李斯の讒言によって投獄されます。
投獄されること自体は不思議ではありません。外交特権なんてものは存在しない時代です。国の方針が変われば逮捕されることだってあるし、そのまま処刑されることだってあり得ます。
ただ、韓非子の場合は、逮捕された理由がおかしい。
韓非子を逮捕する理由を李斯が述べています。聞いてみましょう。
「韓非は韓の国の公子。今、王は諸侯を併呑して天下統一をなさろうとしていますが、誰もが自分の国を思うもの、彼が秦に尽くすとは思えません。かと言ってこのまま国に返すと、こちらの事情が筒抜けになります。今のうちにご配慮下さい」
ってな趣旨の事を言ったとされます。
その意見を取り入れた始皇帝は、韓非子を逮捕しました。
李斯がこのような讒言を吹き込んだ理由として、韓非があまりにも優秀だったために、その地位を脅かされると考えたからだそうですが、これは明らかにおかしいですよね。
そもそもとして、韓非子は韓の国の外交官です。
韓の国の事を最優先に行動することは子供にだってわかります。むしろ、しない方がどうかしています。
また、才能に嫉妬したと言いますが、韓非子は他国の外交官であり、李斯の同僚ではありません。同僚でない者をライバル視する理由が分かりません。
アメリカの国務長官が日本の駐米大使に嫉妬するでしょうか。甚だ疑問です。まして、殺害などあり得ないでしょう。
この説を成り立たせるためには、韓非子が秦の国に仕官したことを証明しなくてはなりません。しかし、その様な文献は発見されていません。
いいたか有りませんが、史記の記述はおかしい。
もしかしたら、韓非子が仕官した証拠が、司馬遷の時代には残っていたのかもしれませんが、それなら、なぜ仕官したと明確に記述しなかったか謎です。
邪推すると、李斯と始皇帝の評判を下げるために、秦の首脳部を悪く書いたのかもしれません。
何と言っても、司馬遷が仕えた漢王朝は秦の次の王朝でしたから。
私は、韓非子は普通に病死したと思います。証明のしようはありませんけど、状況的に獄死は考えにくい。
(=゜ω゜)ノ司馬先生。さては、やりおったな。
続く
書くことあるかなと思っていましたが、思いの外ありましたね。




