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菫の砂糖菓子と妖精の王子

作者: 桜瀬彩香




レルメーレは、婚約を破棄された男爵令嬢だ。



いや、婚約は破棄した事になっているのだが、実際は、解消を提案されて了承している。

たいへんややこしい。


元々、婚約者だった子爵位の男性は、兄が流行病で亡くなってしまった事で、次男として受け継ぐ筈であった一族保有の爵位を弟に譲り、兄が引き継ぐ筈だった侯爵位を継ぐ事になったらしい。

若干情報がふわっとしているのは、当時のレルメーレがまだ幼く、尚且つそのお相手の男性を殆ど知らないからである。



それはもう、清く正しい、政略的な婚約であった。


レルメーレの暮らすコルジュール国の国王の覚えもめでたいそちらの一族の、細部の細部までを補填する為にと定められた婚約は、当人達にとっても義務に等しいものでしかなく、顔合わせをしたのは幼少期の一度きり。


さしたる資産も土地も持たないレルメーレの家だが、鑑賞用の花々を育む事に長けた妖精の祝福を授かっていた事で、そちらの家との縁が巡って来た。

それには、この国の現在の在り方が大きく影響している。



コルジュール国は、光を孕むような美しいエメラルドグリーンの海を有する海沿いの街と、そこに齎された、北海の精霊の祝福からの涼しい風の組み合わせが独自の国土を育む、観光で潤う小国である。

かつては周辺諸国からの侵略に怯えて武装していたが、それらの国の王族達にも愛される避暑地として中立を選んだ事で、戦とは無縁の穏やかで平和な国になった。



(だからこそ私の一族の魔術は大切にして貰えるのだけれど、とは言えそれも、この国の観光地や、舞踏会や晩餐会を彩る為に、美しい花々が必要だと言うだけのことで………)



率直に言えばレルメーレは、と言うよりレルメーレの一族は、固有魔術を持っていると言えば聞こえはいいが、妖精が賛美するような美しい花々を育む魔術しか持たない無力な一族だ。


観光業に特化したこの国で、父や兄達は国の主要な土地の景観を整える為のそれなりの要職に就いているものの、そのような役割を持たない娘のレルメーレは、装飾を補う為に必要な業者程度の価値しか持たない。


今のこの国に必要な才として、先代国王の時代から、一代限りの男爵位ではなく世襲制を許されていなければ、侯爵家などとの縁すら結べなかった弱小貴族だ。


おまけに、それ如きの才で侯爵家御子息の婚約者とされたのも、侯爵家や侯爵家の子供達が、既に充分な程の人脈や財を手にしていたからであったのだ。



(でも、そのままで済むのなら、それでも良かったのにな……)



幼いレルメーレですら婚約の事情は承知していたし、婚約者に対して文句があった訳でもない。

お相手は理性的で穏やかな男性らしく、月に一度届く手紙は、年の離れた婚約者を労るとても優しいものだった。



つまり、だからなのだろう。

こんなにややこしい身の上になったのは。



レルメーレが大人の女性になる前に、侯爵家の長男が亡くなった。

その悲劇がこちらにも届けば、その後に起こるであろう混乱についてはある程度想像が付く。


何しろレルメーレの婚約者は、侯爵家の跡取りとなってしまったのだ。

恐らくレルメーレとの婚約は解消されるだろうし、婚約者殿の今後の立場を思えば、侯爵家は禍根を残さないように手を打つだろう。

円満解消では、足りないのだ。

それでは、これ迄の婚約期間に見合うだけの、侯爵家の糧とは成り得ない。



観光こそを国の生業としたコルジュールの上位貴族として、現侯爵はたいへん聡明かつ強欲なご気性で、だからこそ、その足場は常に揺るぎなく着実に上へ上へと、この国に置かれた唯一の階段を上がってゆく。

そんな侯爵にとって、レルメーレの持つ固有魔術は些末な配役相当の能力だが、そのカードが手元にあるのなら利用しない手はないだろう。


そう考えた侯爵は、よりにもよって我が子に、レルメーレとの婚約を大々的に破棄させる事で、嫁ぎ先を失うであろうレルメーレを、花係の使用人として囲い込もうとしたのである。



(もし、あの時…………)



父親の暗躍に気付いた婚約者が、素早くその一手を叩き潰してくれなければ。

今頃レルメーレは、舞踏会に出て伴侶候補を探す事もなく、何らかの難癖を付けられて著しく評判を損なった哀れな令嬢として、侯爵家で召抱えられていたかもしれない。


その先にどのような未来が用意されていたのかを、元婚約者は、とても不愉快だから聞かない方がいいよと呟いて、幼いレルメーレに明かしてはくれなかった。

その代わり、成る程父親譲りですねという狡猾な画策の下に、レルメーレに、自分との婚約を上手に破棄させたのだ。


穏やかな御仁に思えたが、彼もまた、なかなかの策士であったらしい。



『すまないね、レルメーレ。こんなおじさんと婚約させていた上に、最後まで世話をかける』



そう微笑んだ人が、自分を大事にしてくれる人であったのなら。

その先も二人でいたらどうなったのかという未来を、レルメーレも見てみたかったかもしれない。

けれども、レルメーレは彼に恋をしていなかったし、彼もまた、レルメーレに恋はしていなかった。



かくしてレルメーレは、当時はまだ子供と言える年齢だった事を生かし、子供らしい我が儘で、しかし周囲から見れば確かにそれは惨いと思わせる理由も作り付け、忙しい婚約者に愛想を尽かして彼を見捨てた事になっている。


幼い男爵令嬢が、心ない年上の婚約者から祝祭の人混みに置き去りにされ迷子になるという事件は、レルメーレ側に瑕疵のない理由をでっち上げてくれた。

婚約を解消ではなく破棄とさせる事で、元婚約者殿は、幼い婚約者が侯爵家の道具にならないように守ってくれたのだ。




(あれから、五年経った…………)




レルメーレは、その婚約破棄を機にこれ幸いと、暫く引き籠った。


傷心のあまりにではないし、華やかな舞踏会に興味が失せた訳でもない。

ただ単に、レルメーレの家は、元々そう簡単に舞踏会への準備を整えられる程に裕福ではなく、デビュタントになる為の貯蓄と準備には、随分と長い期間を有してしまった。



そうして今、レルメーレは適齢期と呼ばれる年頃の令嬢となり、今年の社交シーズンから王都を訪れている。



とても残念な事に、適年齢期は今年迄であるし、これが最初で最後の挑戦なのだが。



(最初は、何だか上手くいきそうだったのに………)



元婚約者が無事に相応しい伴侶を得た今は、あの頃の事が人々の噂話に登る事もない。

上がるとしても、祝祭の日に歳の離れた婚約者に忘れられた可哀想な子供というくらいだろうか。


その事に安堵していたのは最初だけで、あまりにも出会いの切っ掛けがないと、いっそもう、そんな元可哀想な子供に同情して声をかけて来てくれてもいいとさえ思ったのだが、人生はそう甘くはなかった。



こつりと踏んだ床石には一人ぼっちの影が落ち、背中を向けた大広間からは、楽しげなワルツが聞こえてくる。

しょんぼりと摘んだ自分の髪色を見て、レルメーレは悲しく眉を下げた。


水色がかった灰色の髪にセージグリーンの瞳のレルメーレは、くっきりとした色合いや陽光の色彩を持つ女性が持て囃されるこの国の基準では、あまりぱっとしないという選定になる。


その上爵位も低めともなれば、さして魅力的ではない候補者の一人として、その他大勢の令嬢達の中にすぽんと埋没してしまう。

つまり、レルメーレは今、とても焦っていた。



(……………どうしましょう。今夜がもう最後なのに…………)



何とも無謀な話だが、予算上の問題で、今夜の舞踏会でどうしても結婚相手を見付けなければならなかった。


あの婚約破棄騒動で、物語の登場人物のような体験をしたレルメーレはすっかり気を良くしてしまい、自分の人生はきっと、収まるべき所に自然と収まるのだろうと高慢にも考えていた。


きっと、そこそこのところで自然な流れが生まれ、素敵な伴侶候補に出会えて、尚且つ、もしかするとそれは家同士の結び付きだけでなく、ちょっぴり想い合ってのものかもしれない。


貴族の恋愛結婚は夢物語だと言う人もいるかもしれないが、近年のコルジュールでは、物語本や歌劇などの流行を取り入れ、そのような婚姻も粋だと持て囃され始めた。

そして、レルメーレのような爵位が低い者達程、そんな幸運を得た者達も多かったのだ。



(………私だって、誰か一人くらいには興味を持って貰えて、王子様ではなくてもいいから、温かな家庭を築けそうな人や、我が家の固有魔術を喜んでくれるような方と、結婚の約束を取り付けられると思っていたのに………)



だがなぜか、レルメーレは、とことんぱっとしなかった。



それなりに綺麗ねと言って貰える容姿だと親族からは分析されていたし、我ながら、お金がないなりに、伴侶となる殿方の力になれるようにと学問に於いてもそれなりに研鑽を積んできたつもりである。


会話をしている相手をくすりと笑わせた事もあるし、友人達からも、特別な一人として重用された事はないものの、嫌われたり軽蔑された事はない。

友達だって、このシーズンで沢山出来た。


恐らくレルメーレは、中庸なのだろう。

だが、中庸さと言うものは、それなりに幸せになれる階級ではなかったのだろうか。


では、花係に逃げられた侯爵が意地悪をしたのかと思えば、あちらは既にレルメーレを逃したことなどどうでも良くなっており、社交界でもレルメーレの過去の婚約破棄については問題視されていない。



つまり、ただひたすらに、そしてとても悲しく、レルメーレの個人的な魅力がたいへん奮わないのであった。



(……………とても悲しいわ)



それを思い知らされた時、レルメーレは茫然とした。

悲しくてむしゃくしゃして、惨めで、救いようのない己の現状に心からうんざりした。


しかし、どれだけ人気がなくとも、この国では貴族の女性が行き遅れると言う事は不名誉とされる。

シーズンも後半の今、若干手遅れな感はあるものの、これ以上惨めな思いはしたくない。


おまけにこれは、惨めな思いをするだけで済むという話でもなく、ここで貰い手がなければ、レルメーレは、ご高齢な紳士の後添えになるか、多少どこかに問題のあるどこかのご子息の愛人になるのがせいぜいである。

平和で豊かな国で、その無惨さはあまりにも悲しいと言わざるを得なかった。


幸いにも、家族の仲は良好だ。

だが、貴族の女性が働けないこの国で、世間体を整える為にそれなりにお金のかかる年頃の女性を養ってゆくには、レルメーレの家は貧し過ぎる。

保守的な思想を持ち、それ故に、娘を幸せにするには嫁がせるしか手段がないと考えているレルメーレの両親も、大いに焦っていた。



(…………ああ、だから頑張らなければいけなかったの!いけなかったのに…………)



それなのになぜ、よりにもよってこのシーズンで、レルメーレは初めての恋などをしてしまったのだろう。



(それも、到底手の届かない妖精の王子様にだなんて!)



もしレルメーレに武芸の才能があれば、愚かな自分の頭を拳でごつんと教育して、この不相応な記憶を失わせただろう。


或いは、魔術の素晴らしい才能があれば、妖精の王子への恋心云々以前に、自分の価値に相応な男性の気をえいっと惹いてみせたかもしれない。


しかし、そのどちらも出来なかった残念なレルメーレは、うっかり心の中に育ててしまった恋心などを抱え、おまけに今夜も売れ残った貴族の御子息達にすらダンスに誘って貰えず、いじけて庭園で蹲るばかりである。



シーズンは、後半に差し掛かった。



会場にはもう、婚約を交わしたばかりの、或いはその幸福な日を控えた男女ばかりになっている。

今夜こそ、僅かに残った独身男性達に小粋なお喋りなどを披露しようと意気込んでいたのに、つい先程会場を訪れたばかりの妖精の王子を見てしまった今のレルメーレは、残念なくらいに使い物にならなくなった。

なのでこうして、逃げ出して来たのだ。



この愚かな自分を叱り飛ばしたい。

そう思えば、悲しくて惨めで、胸がきりりと痛んだ。



(ああ、駄目だったのだわ…………)



レルメーレは、舞踏会の端っこにしがみつくのがせいぜいの貧乏貴族の娘で、自分の事は決して嫌いではなかったが、この華やかな王都では、何者にもなれなかった。



(私も、……………何かを得たかった)



幸せな恋の話に目を輝かせる友人達や、愛する人の手を取り頬を染めた見知らぬ誰か。

そんな同年代の女の子達を眺め、レルメーレは、毎日羨ましくて堪らなかった。


おまけに、レルメーレが得られなかった幸運は、それを持っていないレルメーレを、すっかり異端者にしてしまった。


いつの間にか、辛うじて持っていた中庸さすらなくなり、普通の人々が持つ幸運を持たないレルメーレは、はみ出し者になってゆく。

光の差さない暗い舞台の端から、普通の幸福とはどんなものだろうと見上げるばかりのこの日々を、望んで手に入れた筈などないのに。


それでも、誰にも選ばれなかったレルメーレはきっと、その他の人々に比べると身の程知らずだったのだろう。

自分も何者かになれ、何かを手に出来る人間だと信じていた、愚かで哀れな娘であった。



しゃわんと、水音が聞こえる。



くすんと鼻を鳴らして顔を上げると、きらきらと輝く夜の光に晒された庭園の花々は、柔らかな祝福の煌めきを帯びていた。

ふっくらと蕾を膨らませた薔薇は匂い立つようで、こぼれ落ちる月光は、心が震えるような美しさを湛えている。


瑞々しい花と木々と夜の香り。

背後から微かに聴こえてくる、舞踏会のワルツの音楽。


心が解けるようなこんな美しい夜なのに、レルメーレは、どうしてあの美貌の妖精の王子の横顔を思い出すだけの時間を楽しむ事すら出来ないのだろう。

惨めさに打ちのめされ、じわっと涙が滲む。



(……………どこかに行きたいわ)



そこはきっと優しくて正しくて、レルメーレがこんな風に間違えない、もう少し上手く自分を幸せに出来るところ。


こんな風に結婚を急がずに、のびのびと森を歩いたり、大好きな花々を育てて心を寛がせられるところ。

でも、想像を膨らませてそんな憧れを育てていても、物語のような奇跡は訪れない。


レルメーレは、このシーズンの売り物にならなければいけなかった男爵令嬢で、そこで仕損じたからと言って自由を得る為に家を出る気概などないし、それを可能にする資金や、何か特別な才能がある訳でもない。

それが分かっているからこそ、レルメーレの両親も、この娘は、何とかして嫁がせるしかないと考えたのだ。



「…………でも、あんまりだわ。私だって、沢山頑張ったのに」


爪先の縮こまる靴を履いてコルセットで体を締め付け、それはどうかなと思う話題にも、可憐な女性に見えるように愛想笑いをした。

しかしレルメーレは、つまらないお喋りに辟易していたような男性達にすら選ばれず、こうして今夜も、果たさなければならない義務に背を向けている。



(でも、………)



でも、とても綺麗だった。

ああ、とても綺麗だったのだ。



こっくりとした濃紺の装いに妖精の刺繍を施した盛装姿で、きらきらと輝く水色の羽を持つ妖精の王子は、人間の領域を外れた高位のもの。


コルジュール国には、妖精が少ない。

なのでと、この国の王の招きに応じ、一年に一度、シーズンの後半になると王宮を訪れる心優しき隣人は、レルメーレごときの乙女心では、太刀打ちが出来ないくらいに美しい王子であった。



海辺の美しい街にこの南洋の海沿いで唯一北海の祝福を得た国は、近隣に暮らす人外者達からも避暑地として愛されている。


だからこそ、良き隣人として、その妖精の一族は年に一度だけこの国に守護を与えに来てくれるのだろう。

妖精はとても気紛れで、誰が舞踏会にやって来るのかは決められておらず、よりにもよって今年に限って、未だかつてない麗しさの王子が祝福を授けに来てしまったのだ。



彼等はいつも、シーズンの後半になると舞踏会に現れ、この年に結ばれた者達に月光の祝福を授けるのだが、その祝福を得られた者達は、幸せな家庭を築けると言われていた。


レルメーレがあの王子を見かけたのは、二回前の舞踏会からで、よく考えれば、その時からもう今年の社交シーズンは後半に突入していたのだろう。

そんな事に今更気付き、レルメーレは激しく慄いた。

そうか、だからこそ今夜が最後の機会だったのだなと再認識し、がくりと肩を落とす。


因みに、初めて妖精の王子を見た二回前の舞踏会の記憶は、殆ど残っていない。

大興奮でその美しさを家族への手紙にしたためたところ、結婚相手探しはどうしたのだと嗜められ、我に返った。



(おまけに昨日は、大切に育てていた菫の鉢植えが、ムグムグに荒らされてしまったし………)



観光地となる海辺より内陸に位置する王都に来てからずっと、小さな泉結晶の鉢で育てていた菫の花は、心を少しずつ削り落としてゆくような日々の励みにしようと、願いをかけて大切に育ててきたものだ。

決して、ムグムグと呼ばれる小型の毛皮妖精のおやつにする為ではない。


それなのに、窓辺で日光や月光に当ててやっていたところを食い荒らされてしまい、レルメーレは、大事な菫を食い散らかしたムグムグへの報復を誓わざるを得なかった。


そして、花を育む魔術を宿しながら、自分が願いをかけた菫の花すら咲かせられなかった惨めさに、その日は寝台の上で膝を抱えて声を殺して泣いたのだ。



(でも、借りている屋敷の近くを探してもムグムグはいなかったから、私の大事な菫を食い荒らしたムグムグは、もうどこかに飛んでいってしまったのだわ…………)




「おや、」


その時、不意に頭の上から声が降って来た。

まさかこんな姿を誰かに見咎められたのかと顔を上げたレルメーレは、そこに立っていた人の姿に目を丸くする。



「……………む」



しかし、直前まで、ムグムグへの報復について考えていたからだろうか。

どうやら今度は、憎たらしいムグムグの幻影も見え始めたようだ。


目の前に立っていた人が煙のようにしゅわんと消えてしまい、代わりに、わふわふと足元を駆け回るもしゃもしゃの生き物が現れ、レルメーレは呆然とした。


先程までここには、レルメーレがどれだけ惨めな思いをしても最後にもう一度見ておこうと考えていた、美麗な妖精の王子がいた筈なのだ。

だが今は、綿栗鼠かなという檸檬色でもしゃもしゃのちびこい生き物が、大はしゃぎで、ててっと駆けずり回っている。



「……………ムキュ」



すっと立ち上がった人間から凍えるような眼差しで見下ろされ、ムグムグは、ぎくりとしたように動きを止めた。


レルメーレは無言でその生き物を凝視し、屈んで撫でてもくれない酷薄な人間に暗い目で見下ろされたムグムグは、身の危険を感じたようだ。

みっと飛び上がってけばけばになると、ぶるぶると震え始める。



「……………ムグムグは、鉢植えの菫を食べてしまう、悪い妖精ですね」

「キュム?!」

「…………ええ。お父様が管理している、王宮のお庭になんて置いておけません。すぐさま近くの森に捨ててきましょう」



誠実な声でそう呟き、レルメーレは足元で震え上がっている手のひら大の生き物をむんずと掴む。



念の為に説明すれば、今し方までここに、初めての恋を捧げた美しい妖精の王子が佇んでいた事は、きちんと理解している。

それなのになぜ、つい今し方まで目の前にいた妖精の王子が、こんなもしゃもしゃした生き物になってしまったのだろう。


とは言え、手に入る見込みもない憧れのひとと、大事にしていた鉢植えの菫を食い荒らした害獣とでは、憎しみに心の天秤が傾くのは致し方ない。



(うん。王子様を見たような気がしたけれど、こんな場所にいる筈がない方だもの。きっと、気のせいだったのだわ…………)



ムグムグ追放の為にそう自分を説得した人間は、現実的と言うよりは、とても身勝手で自分本位な生き物なのだった。




「ま、待ちたまえ!!君は今、本気で僕を森に捨ててこようとしていなかったか?!」

「……………まぁ、狡猾な。人型に戻るだなんて」

「僕は、こちらが本来の姿なのだからな?!」

「たった今まで、私が鷲掴みにしていたのはムグムグでした。…………おのれ、鉢植えの恨み………」

「……………た、確かに、あまりにも甘い香りにその姿に戻ってしまってはいたが、僕は、君の鉢植えを荒らした記憶はない。………な、何だろうか…………」

「今、その姿に戻ったと仰いましたね?」



そう問いかけると、この国を訪れている妖精の王子、即ち、グルムエーダ王子は短く息を呑み、片手で額を押さえて小さく呻いた。

そんな仕草に、晴れ渡った夜空から月光が落ち、月光の系譜の妖精である彼の、けぶるような淡い金色の髪をきらきらと光らせる。


その美貌を縁取る艶やかな濃紺の盛装を纏って立っているのは、レルメーレが決して触れる事の出来なかった、綺麗で特別なもの。

明るい光の差し込む舞台場所には招かれなかったレルメーレの手には与えられなかった、祝福を授ける素敵なものだ。



しかし、そんな妖精の王子は今、とても不機嫌そうだった。



「いいか、僕は月光の系譜の妖精だ。確かに、ムグムグと呼ばれる獣の姿を持って生まれてくるが、五百年も経てば人型を得る。無力で無垢な姿で派生し、そこから階位を上げるのが、月光の系譜の生き物の理なのだ」

「…………グルムエーダ様は、一昨日の昼過ぎから夜までの間に、私の屋敷の、菫の鉢植えを食い荒らしていませんか?」

「……………念の為に尋ねるが、本気でその問いかけをされているのなら、僕は、君を不敬だと断罪してもいいのだぞ?」

「……………鉢植えを」

「食い下がるな?!」



あまりにも執念深い人間に怯えてしまったものか、グルムエーダは、ここ数百年はそのような物を食べてはいないと教えてくれた。

疑うのなら魔術誓約をしてもいいと言われ、レルメーレは、漸くこくりと頷く。



「では、大きくなったムグムグは、何を餌にしているのですか?」

「……………その質問に、今の君の僕への認識の全てが現れているのはさて置き、今は、月の魔術の系譜の酒と音楽の系譜の酒を主食にし、それ以外には、月光そのものや音楽も糧にしている」

「……………成体になると、飲んだくれに」

「酒類は、魔術的な供物として受け取る糧だ。くれぐれも、おかしな認識をするのはやめ給え」



ふうっとこちらにも聞こえるような溜め息を吐き、グルムエーダは、ちらりとレルメーレを一瞥する。

月の光を宿した淡い水色の瞳には、なぜか、物言いたげな揺らぎがあるようだ。

そしてレルメーレには、その切なげな眼差しが、餌を強請るムグムグに見えた。



「申し訳ありませんが、お酒は持ち合わせておらず………」

「………だが、花の香りのする砂糖菓子を持っているだろう?」

「……………持っておりません」

「なぜ、目を逸らしたんだ。確実に持っているな」

「ぐ、ぐぬ!!…………なぜ、とても素敵な笑顔で距離を詰めて来るのですか!あれは、最近は精神的な負担の多い私の、大切な大切な糖分なので、我が国のお客様とは言え差し上げませんよ!!」

「では、どこで作られている物なのかを教えてくれ。ここまで瑞々しい花の魔術と祝福を宿した砂糖菓子は、近年ではとても珍しい。ずっとそのような物を探させていたのだが、どこかで精製されたという話も聞いていなかったが……」

「これは売り物ではないので、その噂がお耳に入る事もなかったでしょう。育てた花から祝福や花蜜をいただいて砂糖菓子を作るのは、私の趣味なのです」



なぜそんな物を気にかけるのだろう。

妖精はおかしなものを好むのだなと考えながらも、レルメーレは素直にそう告白した。

特に隠しておくような事でもないし、勿体ぶるような特別なレシピでもない。


ムグムグの成体だと知ると、ほんの少しの憎しみが疼かないでもないが、鉢植えを荒らした犯人ではないのなら、グルムエーダには罪はないのだ。



「…………君は、妖精の花の系譜の祝福を持つのか」

「大したものではありませんし、妖精であれば、ある程度の魔術階位があれば、誰にでも扱える魔術です。あなたは王子様なのですから、どなたかに頼めばすぐに作ってくれるでしょう」

「…………この手の嗜好品の香りや味は、作り手の感覚によって容易く左右されてしまう。技術や、より階位の高い魔術を持っていたところで、同じ物を再現出来るとは限らないのだ」

「……………念の為にお伝えしておきますが、私は、グルムエーダ様の菓子職人になるつもりはありませんからね?こちらに休憩に出てきておりましたが、私は、このシーズンでどなたかに嫁がねばなりません。菓子職人になるような自由も余裕もないのです」



きっとこの妖精は人間の事情に明るくないのだなと思い、レルメーレはそう説明してやった。

妖精は強い魔術を持つので、何らかの要求をされる前に、こうした断りを入れておかねばならない。


考えてみれば、妖精なのだから人間の事に詳しくないのは当たり前なのだが、憧れの人にどうしてこんな説明をせねばならないのだと、どうしても暗い目になってしまう。



それにしても、何と不公平な運命だろう。

伴侶選びが上手くいかないどころか、憧れの人すら、憧れのままでいてくれないだなんて。



「……………さては君は、僕が嫌いだろう?」

「い、いえ、これまでは素敵な方だなと憧れていたのですが、…………ムグムグの姿が脳裏にちらつくと、森に放り投げたくはなります…………」

「投げるのか?!」

「大切に育てていた菫を、無残に食い荒らした生き物の姿を見せられたばかりなのですよ?そんな妖精に給餌関係の話題を振られると、やはり心の傷が疼くのです…………」

「給餌……………」



冷ややかなレルメーレの返答に絶句してしまい、美しい妖精の王子は、虐められた獣のような悲しげな目をしてこちらを見る。



(……………まったくもう!)



やれやれと一つ溜め息を吐き、レルメーレは、舞踏会用のドレスの隠しポケットに仕舞ってあった小物入れから、市販の状態保存の魔術をかけたハンカチに包んだ、菫の花の砂糖菓子を取り出した。



「一つだけ、ですよ?」

「……………いいのか?」

「自分用に持ち歩いていたお菓子なので、こんな風に保管されていた物です。仮にも王子であるあなたが、お嫌ではないのでしたら」

「いただこう」



水色のハンカチの上から、花の形に押し固めた砂糖菓子を手に取り、美麗な妖精の王子がぱくりと口に入れる。


そう言えば、王子なのに毒味などはしないのだなと思ったが、相手は人間より遥かに長くを生きる妖精なのだ。

毒などを、恐れる事はないのかもしれない。


幸せそうにもぐもぐしている妖精の王子を眺め、レルメーレは、ふっと苦い微笑みを浮かべた。



(でもまぁ、良い思い出になったのかもしれないわ…………)



良き伴侶は得られなかったが、舞踏会の夜に、美しい妖精と庭園で二人きり。

美しい妖精の王子を餌付けしたという思い出は、これからのレルメーレを慰めるものかもしれない。



そんな事を考えかけ、レルメーレはふと思い立った。




「ご相談なのですが…………」

「…………相談?」

「ええ。この砂糖菓子全てと引き換えに、私に、良縁を得られるような祝福を授けて下さいませんか?あなたはまだ腹ペコなお顔で砂糖菓子を凝視しています。となれば、この機会を無駄にせず利用出来るのだと、今更ですが、気付いてしまいました」

「…………仮にも、伴侶探しをしている娘だろうに、何の遠慮もない言葉で請うのだな」

「あら、今更言葉を飾っても仕方がありませんでしょうに。何なら、成功報酬で、お好みのお花の砂糖菓子も付けますよ?」



そう提案した狡猾な人間に、月光がけぶるような髪を揺らして、グルムエーダは考え込む様子を見せる。

けれどもそれはほんの一瞬の事で、すぐに、こちらの背筋が寒くなるような、人ならざる者の美しい微笑みを浮かべた。



「……………いいだろう」

「なぜでしょうか。この契約はやめておいた方が良さそうだと、そんな気がしてきました」

「いいのか?砂糖菓子と引き換えに、年老いた貴族の後添えにならずに済むんだぞ?それに、結ぶのは、妖精と人間の正式な約定だ。砂糖菓子以上の対価は決して取るまい。お前が思う誰よりも、………あくまでも市場価値としてだが、………良い夫との縁を繋いでやろう」

「因みに、その良い夫候補の方は、市場価値は高くとも、暴力を振るったりするような酷い人間ではありませんか?」

「ああ。残虐な人間などには渡すものか」

「渡すものか…………?」



奇妙な言い回しに首を傾げ、けれどもレルメーレは、さあもう一つと砂糖菓子に貪欲な妖精の王子に急かされ、残りの砂糖菓子を渡してしまった。


その途端、しゃわんと光の輪が足元に落ち、きらきらと輝き出す。

あっと思った時にはもう、契約の魔術が結ばれてしまっていた。




「ふむ。宜しい。君からの求婚を受けよう」

「……………はい?」

「手作りの食べ物を渡す事が、我々の求婚の作法である事は知っている筈だ。妖精を隣人とする土地の人間は、子供の頃に必ず学ぶだろう」

「…………す、すっかり失念していました。それもこれも、王子が、私の足元でもしゃもしゃ毛皮の生き物になって弾んでいたせいです」

「失念していても、これは魔術の作法だからな。そもそも君の同意の下に結ばれた約定なのだから、諦めて僕の花嫁になり給え」

「それは結局、お菓子係なのでは…………」



途方に暮れてレルメーレがそう言えば、グルムエーダは、はっとする程愉快そうに、そして満足げで男性的な微笑みを浮かべた。



「だとしても、我々は、自分の花嫁選びに妥協はしない。君は素晴らしい砂糖菓子を作るし、だからこそとても可愛い」

「だからこそ…………?」

「………ああ、人間の色恋の作法とは違うのか。だが、仕方のない事だろう。僕は妖精で、君達人間とは執着の在り方が違うのだから」

「………そう言われてしまうと、確かにその通りですが…………、」

「とは言え、差し出す愛情には差異がない筈だ。人間の国に愛着があるのなら、こちらにも屋敷を構えればいいだろう。毎日この砂糖菓子を作ってくれるのなら、君の願いは何でも叶えてあげよう」

「………毎日はやめましょうか。さすがに妖精の王子様とは言え、体に悪そうですからね」



しかし、婉然と微笑んでいたグルムエーダは、レルメーレがぴしゃりとそう言えば、悲しそうに瞳を揺らしてこちらを見る。


やはり、お腹を空かせたムグムグに見えるが、この麗しい妖精の王子が伴侶になるのなら、レルメーレにも、自分の伴侶の健康を管理する義務がある。



(でも、……………どうやって、お父様やお母様に説明しようかしら……………)



きっと両親は、娘が捕まえてきた伴侶を見たら、あんまりな大物の姿にばたんと倒れてしまうだろう。

加えて、国に守護を与えてくれている妖精の王子を餌付けしたともなれば、国の偉い人達と何らかの交渉事が必要になるかもしれない。


その面倒さを思いぎりりと眉を顰めると、やれやれと苦笑するような柔らかな気配があった。



「…………まったく。心の動きが、全て顔に出ているぞ。人間は、悩み事が多いのだな」

「これでも貴族社会の端くれとして、今回の事を、どうやって各所にご報告しようかと考えていました」

「そのような事は、僕の従者達に任せておけばいいだろう。僕の身の回りの交渉と調整こそが、彼等の仕事なのだから」

「………さすがに、私の両親への挨拶には、あなたが来て下さいね」

「ほお、そのようなものなのか。では、人間の作法もあるのだろうから、君の家族への挨拶には僕が出向こう」



おずおずと申し出てみると、素直に頷いてくれたグルムエーダに、レルメーレは、少しだけびっくりしてしまう。


このお相手は、人間など簡単にくしゃりとやれる妖精の王子なのに、どうやら本当にレルメーレに寄り添ってくれるらしい。




「さてと、では広間に戻ろうか」

「……………広間に、ですか?」

「婚約を決めた者達は、あの広間で踊るのが人間の作法なのだろう?祝福は僕から授ける事になるが、それはまぁ、諦めてくれ」



思わず預けてしまった手をそっと握り、こちら見て微笑んだグルムエーダに、レルメーレは目を瞬く。



(…………あれ、私、……そうか、私はこの人と結婚するのだわ……………)




ずっと憧れて見つめてきた、美しい妖精の王子と。

しがない男爵の娘が、結ばれるという。

それはまるで、おとぎ話の中の幸せな物語のようではないか。




「……………不思議なことも起こるものね」



そう考えると何だかおかしくて、レルメーレは、くすりと微笑む。


お相手は妖精の王子なので勿論一筋縄ではいかないだろうが、初恋を叶えて貰えたのだから、もし問題が生じても、彼がすっかり気に入ってしまった砂糖菓子を使って調教してゆくのは吝かではない。





その日の夜、コルジュールの王宮の舞踏会で、花を育む魔術しか持たない貧乏男爵の娘が、妖精の王子と結ばれた。



交わされた契約が婚約ではなく、最初から婚姻の約定だった事を知ってレルメーレが倒れそうになるのは、その夜の、もう少し後の事である。

妖精の王子は、素晴らしい砂糖菓子を作る伴侶を、とても大事にしたという。










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― 新着の感想 ―
[良い点] 素敵な話でした。 [気になる点] その後が気になります。
[良い点] とても美しい文体だと思いました。 情景や人心の機微の描写が丁寧で、それでいて仰々しくないためすっきりと読みやすいです。 ストーリー自体も、お伽話のような王道の展開でありながら、レルメーレの…
[一言] 安定の楽しさですな!ほんと大好き!ネアちゃんのとこで常識が常識じゃなくびっくり箱だが身についてるので本当に楽しいです。もっとやれ、ピューピューです
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