雪の妖精(3)【移】※年越しSS
居間のソファでは、ザイガンがひとときの寝息を立てている。
その後ろの壁に背を預け、マントにくるまっているのはウィラードだ。
キリムとイチゴはシリアのベッドを借りて、ナタリフはアーツのベッドで眠っている。
カガンとササナは酒豪のドワーフらしく、しっかりとした足取りで家路に着いた。
皆をそれぞれ部屋に案内したあと、なんとなしに寝付かれない気分になって、シリアは台所で宴会の片づけをしながら、この一年のことを思い起こしていた。様々あった一年だったが、支えてくれた友人達が居たからこそ、しっかり歩くことが出来たのだと思う。シリュエスタの教義にもある『友愛』が改めて身に沁みる気がして、シリアは胸の中で友人達に感謝の言葉を捧げた。
そしてふと思い出す。台所の隅に隠していた大切な贈り物のことを。袋の中からそれを取り出して彼の姿を探した。
居間にはいない。部屋に戻ったのだろうかと思ったが、ナタリフが居るのだから違うだろう。
ではどこに、と巡らせた頬にふと冷たい風を感じた。暖炉で暖まった家の中に、冷気の流れが生じている。それを追って進むと、家の裏へと続く廊下の途中にある、中庭へ出る扉がほんの少し開いていることに気がついた。
隙間から細く白い光の帯が差し込んでいる。歩み寄って扉を開けると、その向こう側には見事な白銀の世界が広がっていた。先程までの吹雪が嘘のように止み、空には銀色に輝く月が浮かんでいる。
そんな月光が映し出す地上の造形、その中にたたずむひとつの影。月明かりに照らされ、深く青く広がる夜空を見上げるその背中は、自分が焦がれてやまないそれに他ならなかった。
真っ白な雪原に刻まれたひとり分の足跡。シリアはそれをたどって彼の傍まで歩み寄った。
「アーツ」
小さく声をかけてみる。するとゆっくりと彼が振り向いた。
「雪も止んだし、月が綺麗だったんでつい……ね」
「本当ね」
夜空を見上げる彼の顔は、銀色の光ですっかり照らし出されている。シリアは羨望のまなざしでそれを見つめた。
「光を浴びてもなお、自らの持つ輝きが失せないんだもの」
言葉が届いたか、アーツがほんの少し首をかしげてこちらを見た。何でもないわと返すと、背中に隠していたものにぎゅっと力を込める。
「ねぇ、アーツ」
「なんだい」
「少しかがんでもらってもいい?」
「え」
「お願い」
ああ、と従った彼の首に、襟巻きをゆっくりと巻きつけていく。
「今年も一緒に過ごしてくれてありがとう。これはそのお礼」
冬の夜気は肌に痛い。冷えた頬に優しく触れる毛糸の暖かさに、これは彼女の心の温かさに違いないとアーツは思った。編み目のひと針ひと針に込められた想いと、失いたくない温もり。それを今年も与えてくれた彼女に深く感謝する。
「ありがとう」
「こちらこそ」
そして。
「……いや、それだけじゃなくて」
「え?」
少し熱を持った手のひらで、シリアの小さな手の甲に触れる。はっとして上げられた顔に、真っ直ぐな視線で答えた。
「できることなら」
そうして、次ぐ言葉を紡がんと唇を動かした瞬間。
さく。
かすかに、ほんのかすかに雪原を踏む音がした。
静寂が支配する空間で、それは明らかに耳に届き、最後の戒めであるかのように心を圧す。アーツは出かかった言葉をぐっと飲み込むと、一瞬流されかかった己を恥じ、それから顔を上げて言った。
「来年も、一緒に過ごしてくれないか」
そうして微笑む。それを受け止めたシリアは、少し頬を赤らめつつ答えた。
「はい」
けれど、密かな寂しさが残るのを感じた。先程の言葉は、彼が本当に口にしようとしていたこととは違うような、そんな気がしたのだ。彼が見せた一瞬の表情に、今の言葉はそぐわない。しかしそれは、単なる自分の思い上がりなのではないのか。
巡る思考の間に、気づけば離れてしまった手のひら。シリアは心の片隅がちくりと痛むのを感じた。
「シリア」
そんな心境を察したのだろうか。彼が首に巻いていた襟巻きを自分に巻いてくれる。ふわりと香った毛糸の匂い。柔らかなそれはまるで彼の懐のように温かい。
この想いさえあれば、どんな苦難も乗り越えられる。
大丈夫。きっと、いつか。
自分を包むぬくもりに自らの手を重ね、シリアは切なる願いにそっと目を閉じた。
「総団長」
雪の上を王城へ向かって歩いていたザイガンの背中に、追いついたウィラードが声をかけた。
「なんだ。お前までついて来る必要はないんだぞ」
「そうも言ってられないでしょう。今夜は年越しで、人手が追い付かないんですから。頭だけじゃ胴は動けませんよ」
その言葉にザイガンが苦笑する。
「あいつを無理矢理連れ出したのは俺だからな。その穴埋めぐらいはしておかんと、クレードにどやされる」
「それで、『ラクティノースは数刻は戻らん。代わりに総団長の俺が対応するから文句はあるまい』ですか」
先程アーツの家に伝令がやってきた。その彼が扉を叩く前に、先んじて内側から開けたのがザイガンだ。至急の案件が生じ、士団長のアーツに指示を仰ぎにやってきたようだが、ザイガンがそれを肩代わりすることを自ら申し出たのだ。
「無粋な真似をするよりはよかろう」
その言に、ウィラードはちらと背後に視線を走らせ苦笑を浮かべた。
「それは皮肉ですか」
「ん? 何かおまえの気に障ることを言ったか」
しれっと返してきたザイガンに、何もかもお見通しかとあきらめの息をひとつつく。宙で白く凍るそれが消えるのを見つめ、それから月の上がった夜空を見つめた。
「いっそ吹雪いたままでいてくれりゃよかったのに」
ひそやかに発せられたそれ。
ひとときの感傷を自嘲の笑みで拭い去り、彼は己と同じ定めを負った背中を追って、黒い外套の裾を翻した。
雪の妖精は、今夜はもう現れまい。
明日はきっと晴れるだろう。
すがすがしい幕開け、金色の暁光が世界を照らすはずだ。